2011年12月25日

伝説の商社マン (6) 丹羽宇一郎、伊藤忠商事

" 涙が出るほどの感動を味わえ ” 

“ 人は、仕事によって磨かれます。仕事で悩み、苦しむからこそ人間的に立派になるのです。 ” 伊藤忠商事元会長、現: 中国大使の丹羽宇一郎氏は言う。

 仕事をすると、2種類の報酬がもらえます。 「 見える報酬 」 お給料と、 「 見えない報酬 」 自分の経験値と成長です。

 だから、 「 こんなつらい仕事をやらされるなんて 」 とゴチャゴチャ不満を言う前に、それを与えられたことを喜ぶべきなんです。

 もちろん、嫌な仕事を引き受けられたからといって、それと自分の成長はイコールとは限りません。しかし、周りの同僚が誰も引き受けないような仕事を引き受けて、それを前向きにとらえるところにグレードアップの可能性があるのです。

 私が課長だった頃は、部長の権限くらいの仕事をしていました。自分の権限が及ばない案件については、理論と現場経験をもって部長を説得してしまうからです。すると、課長の立場にありながら、実質的には部長レベルの仕事までできるわけです。

 今、伊藤忠は安定した組織となってきました。これは一方ではいいことです。しかし人間、会社が大きくなると官僚的になる。安定した組織を維持するという点では、官僚的というのは大事なことですが、その一方で実に弊害も多い。

 賢い人間が多くなるんです。だからリスクを取らなくなる。新しいビジネスモデルを創っていく気概のある人間が減っているように思います。リスクを取らない人間ばかりが増えたら、商社は一体どこで儲けるというのでしょうか。

 私はよく経営会議で言いました。
 「 君たち! 本当にオシッコ漏らすぐらいの緊張感を感ずる仕事をしろ! 」 と。

 どっちに転んでもたいしたことないような仕事をしたって、感動も感激もありません。想像を膨らませて、大きな仕掛けを考える。このビジネスが成功させるか、契約が成立するか、オシッコ漏らすくらいの緊張を伴う仕事をすれば、そこには涙が出るほどの感動や感激があるはずです。

 今でも覚えているのですが、アメリカに駐在していたとき、ホワイトキャッスルというハンバーガー屋がありました。小さな箱に入っていて、当時は15セントか25セントくらい。

 蒸気を出すしかけでハンバーガーは膨らんで、温かいまま食べれられるアイデア品です。私はいつも5つくらい食べていました。

 この店はボストンやニューヨークなど、ノースイーストで展開していたので、私がオーナーに掛け合って、日本に進出しないかと持ちかけました。

 ところがオーナーは、日本に進出するくらいなら、アメリカの他の地域で展開する。しかも今のところ北東部から出るつもりはないとのこと。

 結局、これは実現しませんでしたが、少なくともこうした行動力がなければ、新しいビジネスを仕掛けることなどできないでしょう。そのぐらいの意欲がほしい。だけど、今の若者たちはそうしたひたむきな努力を冷笑し、冷めた目で見ている人が多い。

 もうそれだけで腹が立ちます。

 会社経営者にしてもそうです。私が最近の経営者を見ていてダメだと思うのは、週刊誌とスポーツ新聞しか読んでいない人が増えていることです。

 難しそうな単行本は読まない。これでは論理的な思考はどんどん衰退していきます。もっと問題なのは、想像力がなくなるということです。

 ビジネスマンにとって読書は大事です。

 私は名古屋市西南部の西端、下之一色町というところの本屋さんに生まれ育ちました。

 いつも模範生であることを期待され、高校時代は生徒会の議長をやっていたから、受験勉強はほとんどしていなかった。名古屋大学を受験して見事落ちました。そして予備校に通い、翌年には無事に名古屋大学法学部に合格しました。

 新聞部に入部したものの、翌年からは学生運動一色。私ものめりこんでいきました。
勉強などほとんどせず、教養課程はほとんど出席日数がぎりぎりというありさま。無鉄砲な学生でしたから、まともに就職できるとは思っていませんでした。

 伊藤忠商事と聞いても、大阪にある繊維の会社ということくらいしか知りませんでした。
面接で聞かれたのは成績のことでした。

 「 全部、優です。 」 と言いましたが、全部といっても専門課程は6つか7つくらいしかありあません。

 なおかつ、高校時代には生徒会の議長をやっていた。何となく優秀そうだ。それで終わりです。

 就職試験に行くと、帰りに交通費を支給してくれるでしょう。私はそのお金で、大阪のミュージックホールへ行って遊んでいました。夜遅く帰宅すると、もう採用通知が届いていたんです。

 「 なんていい会社だ 」 と思って伊藤忠に入社しましたが、入って早々、
 「 このままでは堕落する 」 と思いました。書類の清書とか、コピー取りなど、知的要素の無い仕事ばかりだったからです。

 新入社員のときは誰でもそうかもしれませんが、私も例外ではありませんでした。
 「 いったい私をだれだと思っているんだ 」 と嫌気が差して、入社して2か月あたりでもう辞めようと本気で考えました。

 名古屋大学の先生に 「 会社を辞めて司法試験を受けようと思う。 」 とまで手紙を書いたくらいです。そしてなけなしの金をはたいて六法全書を買いました。

 ところがその決意はたったの一か月でもろくも崩れ去ります。なぜかというと、銀座のバーに負けたんです。先輩が銀座に連れて行ってくれるようになって、そっちのほうが六法全書よりも魅力的だった。

 今となっては笑い話ですが、当時は反省しました。

 私は入社当初から、鼻っ柱の強い社員だったと思います。田舎者で、言葉づかいやマナーも知らなかった。スーツは一着だけ、髪はバサバサ。およそ商社マンとしてあるまじき姿です。

 「 きみ、ポマードくらいつけてこいよ 」 と先輩に言われましたが、かえって 
「 なんでそんなものをつけなきゃいけないの 」 と反発していました。

 加えて、 「 こんな仕事などやっておれん 」 という態度があからさまに出ていたので、反感を買っていたと思います。

 「 一生懸命働いているのに、どうして他部門の同僚より給料が安いのか。もっと評価してくれてもいいんじゃないか。 」 という思いが顔に出ていたのか、あるとき課長さんから言われました。

 「 能力というものは、自分で評価するものではない。他人が評価するものだ。 」 納得いきませんでした。でも、それからです。
 「 今に見ておれ 」 と反骨精神が出てきたのは。

 それからは毎日11時くらいまで仕事をするようになりました。おそらく月間で100時間以上は残業していたんじゃないでしょうか。

 しばらくしてから、上司の言った意味がわかるようになりました。ビジネスの世界では、自分の評価など何の足しにもならないということです。たとえば、自分が100点満点の仕事をした場合でも、他人の評価はせいぜい70点か80点くらいでしょう。

 社会人になったばかりの頃は、たいていの人がここのところに思いが至りません。自分の能力に謙虚になれず、先輩たちが会社に飼いならされているとすら思ってしまう。

 社長の私に若手社員から先輩の悪口を書いたEメールが飛んでくることもあります。でも、先輩や上司の悪口を言う前に、果たして自分の実力はどうか考えてみてはどうでしょうか。他人の批判ばかりで謙虚さがないのはいけません。

 入社6年目に、食料を担当していた私はアメリカに駐在となりました。

 ( つづく ) 


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2009年11月28日

商社人物伝 (3) 鈴木朗夫・住友商事

 1987年に56歳で亡くなられた元住友商事・常務の鈴木朗夫氏は、連日遅刻をすることで有名でありながらも、テキパキと八面六臂の仕事のさばきかたをして、超特急で出世するという異彩を放った商社マンである。

 遅刻の常習犯で、会社の規律や日本的慣行に徹底的に反抗し、制度と闘いながらも、当時の大手総合商社6社の中で最年少役員に出世した。

 ビジネスマンとしてだけでなく、芸術を愛し、女性を愛し、スペインを ”わが故郷” と呼んだ男。
 色の黒い精悍な、日本人離れした風貌を持つ美男子であり、住友商事のオフィスで日中にOL達が見学に訪れるくらいに、日本でも海外でも、女性によくモテたという。 

 佐高信 著の ”逆命利君” に記された彼の生きざまは、まさに命に逆らいて君を利するもの。 抜群の企画力、折衝力、語学力と自己の美学をもち、屈従と非合理が支配する陰湿な日本的企業社会に対する果敢な挑戦者であった。ジャン・コクトーに心酔し、自分をムッシュウと呼ばせたこの気障な教養人の誇り高き生と死のドラマは、本を読んでいてぐいぐいと引き寄せられる。

 会社の同僚と飲みに行くと、ブランデーを片手に、「レイモンラディゲの ”ドルジェル伯の舞踏会” は最高です。」 と評し、 「ラディゲは20歳で死んだけれども、老衰です。」 と、あふれんばかりの教養で若手社員を煙にまき、オピウム(阿片)という一本3万円もする香水を会社の役員室や自宅にふりまき、高度経済成長期に流行った ”モーレツビジネスマン” を社畜と呼んで軽蔑し、ヨーロッパの自由な文化を愛した。

 昭和6年に名古屋市で生まれ、東京大学経済学部を卒業後、住友商事に入社した鈴木は、最後は常務取締役業務本部長だった。世界を舞台にした商戦で、決して卑屈な妥協はせず、外国人バイヤーとも対等にわたりあったタフ・ネゴシエイターであった。

 20代後半の頃から、後に住友商事の社長となった伊藤正氏の部下として、常に右腕的存在だったらしい。

 猛烈課長・伊藤氏のもとで連日深夜まで働かされる生活に嫌気が差した鈴木氏は、当時はまだ無かったフレックスタイムを住友商事で勝手に実践し、毎日遅れて会社に出社し、たいていは昼頃出社していながら、就業規則にある ”遅刻届” に 「靴ひもがうまく結べなかったため」 とか、「深夜に会社の将来を考えていたら眠れなくなったため」 とか、好き勝手な理由を書いては提出していたそうだ。

 ある日、住商の人事担当役員から呼び出しを喰らい、連日の遅刻をとがめられると、
 「何か問題がありますか?」 と平然と答え、人事担当役員が
「問題がありますかどころではない。君は就業規則に違反しているのだ。」 と返すと、

 「本当ですか。ちっとも知りませんでした。就業規則のどの条文に反しているのでしょうか。遅刻をしたら ”遅刻届”を出すように書いてあるので、私はきちんと毎日、提出しているのです。むしろ私は表彰されるのかと思っておりました。」と答えたそうだ。

 住商の就業規則には、遅刻がいけないとはどこにも書いて無かったのである。 

 ところが仕事は抜群に出来て、鉄鋼部門で日本の鉄鋼製品を海外に売りさばいたものだから、上司の伊藤正はいつも人事・総務から鈴木をかばい、鈴木の主張に次第に耳を傾けるようになる。

 「鉄鋼貿易部はいつも夜10時過ぎまで仕事をするのだから、朝は9時半はじまりにしよう。」 というのを上司・伊藤は積極的に指示して人事にかけあったという。翌朝ムリして早く来ても、いい仕事は出来ないという理由でのフレックス制の採用である。日本でも最初のフレックス制度を住商が採用したのはまさに鈴木のおかげである。

 そんなことがあって、9時半始まりになっても、鈴木は早くて10時過ぎ、たいていは昼から出社したという。
 「それはそれ、これはこれ」 なのである。

 鈴木の書く英文ビジネスレターは簡潔で、要点を押さえてあり、若手社員の書く英文ビジネスレターを徹底的に赤字で添削してはしごいたという。鈴木の書いたレターを、三菱商事が、これぞ商社マンの書く模範的なレターだといって商業英語のテキストに入れたとか、外務省のテキストにも採択されたという話もあるくらいである。

 上司の伊藤が米国住友商事の社長として、先発の三菱商事や三井物産、丸紅を猛追し、売り上げを4倍にまで広げた陰には、鈴木がいたという。

 鈴木は、「フォーチュン500社作戦」 を実行し、アメリカの経済紙、フォーチュンに掲載されている大企業500社に全部コンタクトを取り、住商と取引をはじめるよう思いついたという。その中には既に住商と取引をしている会社もあれば、無い会社もある。アメリカの上位500社と取引を始めれば、上位の三菱商事や三井物産も視野に入る、というわけである。その甲斐あって、米国住友商事は飛躍的に売上高、利益を伸ばしたそうだ。

 そんなくらいだから、会社側の信望も厚く、ヨーロッパを愛する彼は、自分で勝手に出張をこしらえて、パリやスペインに1カ月から3カ月も短期駐在をしては、仕事を適当に切り上げては悠久の欧州大陸を放浪したという。パリの街角では、地下鉄のホームで眼が合ったパリジェンヌをナンパしたという逸話も残っている。

 自分より若く亡くなった鈴木朗夫の葬儀の席で伊藤正元社長はこう弔辞を述べたという。
 
 「君は若い頃から異彩を放っていました。凡そサラリーマン的でない人間で、自分は会社に時間を売っているのではない、仕事を売っているのだと言って、出社時間も必ずしも正確でなく、いささか私をてこずらせたものですが、君の持つ企画力、折衝力、語学力は抜群のものであり、短期間のうちに鋼材輸出のすばらしい担当者として鉄鋼メーカーの人々からも絶大なる信用を受けられ、住商に鈴木ありとの名声をかちとられたのであります。」

 鈴木の葬儀には、キューバやフィリピンの駐日大使夫妻も参列していたという。いかにも国際人らしい鈴木の生き方だった。


岩波現代文庫から彼の伝記が出ています。


posted by ヒデキ at 01:32| Comment(0) | 伝説の商社マン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年11月22日

商社人物伝 (2) 海部八郎 :改訂

 商社マンの中の商社マンと称された伝説的人物が、日商岩井(現:双日)で1970年代、80年代に活躍された海部八郎氏である。

 南アフリカのヨハネスブルグに向かう国際線の中で、彼の姿を見かけた三井物産の若手商社マンが、”商社マンとはどうあるべきか? 商社マンはどう世界と関わっていくべきか?”
という生きる上でのエッセンスをしきりと海部氏に伺ったという。ライバル商社の間にまでも、その才能は響き渡っていたのである。

 日商岩井のヨハネスブルグ支店に着いた後は、たちまち現地駐在員として派遣されていた若手日本人社員に取り囲まれ、懸念となっていた天然資源やタイヤ輸出の取引などの相談を受け、両方の耳に受話器を二つ当てながら、現地の商人との取引を、たちまちのうちにまとめていったという。

 商社マンとは? という定義を、マスコミや就職雑誌は、サラリーマンやビジネスマンのカテゴリーに入れ、右から左に商品を動かしてマージンを得る商売人との定義をつけたがるが、本当の定義とは、 

 ”華僑やユダヤ商人、印僑やアラブ商人、フェニキア商人などの世界の海千山千の商売人との駆け引きで、日本の国益を海外から分捕ってくる切れ者” と表現したほうが、より直接的で分かりやすいのではないだろうか? そう表現することでしか、夜も昼もなく、髪の毛振り乱す勢いで世界中で闘っている商社マンの日本への貢献度を表せないような気がする。

 とは言っても、ここのところ10年の間に、物流取引から、国際事業会社(投資会社)へと、基幹となる収益はずいぶんと変わってしまったが。。。

 海部氏は、神戸大学(元神戸経済大学)を首席で卒業した後、日商岩井(当時は日商)に就職され、米国日商の駐在員となって、平均睡眠時間3時間の猛烈な仕事ぶりで船舶輸出の実績を上げる。

 そして、自衛隊が設立された後の戦闘機の輸入や旅客機の輸入で大きく商権が広がった総合商社の主戦場、航空機取引に転じ、わずか40歳にして取締役東京航空機部長に就任する。ボーイングの航空機ビジネス、船舶ビジネスでは、財閥系商社からも恐れられる存在であったという。

 旧日商岩井の幹部は 「俺は海部軍団の残党だ」 と誇らしげに語ったくらいに社内で影響力があったそうだ。

 1975年当時には、ピンクのカラーシャツにダブルのスーツを着て就職試験の役員面接で登場し、まじめな商社マン像からはかけ離れた姿に、当時の若手はそのスケールの大きさを感じたそうだ。

 ただ海部氏は強面の風貌とは反して、若手の意見を聞き、部長の段階で滞っている案件があれば同氏に陳情すると、すぐにその部長は怒鳴りつけられ、翌日には決裁が下りたという。海部氏の型破りなスタイルに、機械部門の若手社員の多くが心酔し、ダブるのスーツを着て、社内を肩で風を切って歩き、自らを海部軍団と呼んだという。

 ところが、日米の政争のあおりを食らい、1979年にダグラス・グラマン事件で外為法違反、偽証罪の容疑で逮捕され、日商岩井副社長を辞任することになる。
ただ、取締役の地位には、役員任期満了まで留まり続けた。

 彼の人間性を知るエピソードとして、東京都渋谷区に「息抜きのための書斎」とよんだ高級マンションを所有していたそうだ。部屋の中は分厚い絨毯のうえを模型機関車がはしりまわっていて、BGMとして童謡のメロディがながされていた。海部は週に2-3回の頻度で会社の専用車でやってきては2時間程度この部屋ですごしていたという。

 ダグラス・グラマン事件で隠れ家のマンションに捜査の手が及んだ時、踏み込んだ捜査員が見たものは部屋一杯に敷き詰められた鉄道模型だったという。

 1980年に日商岩井を退任後も、国際汽船の社長、極東海運実業の社長、ロイヤル建設の社長などに就任されて、あふれる才能を目いっぱい発揮された後、1994年に70歳で逝去されている。

 彼の頭の良さは幼少の頃から際立っていたようだ。

 父は、元は師範学校の英語教師で、その後、浅野物産の幹部になり、高給取りだったため海部氏の家庭の生活水準はかなり高かったという。海部氏の中学時代、友人が20銭、50銭という小遣いしかもっていなかったのに対して、海部は5円、10円の札ビラをきったというエピソードがある。
 中学時代は国語、漢文、地理、歴史といった文系科目が得意で、中でも英語の成績は抜群だったらしい。逆に理系科目は不得意で、数学はよく落第点をとっていたという。

 神戸大学時代のゼミの恩師は、「海部は非常な読書家で読むのが実に早く、よく勉強している点では学年で一番、もちろん成績も一番。本人が希望すれば大学に残そうと思っていた。」 と証言している。

 そのような稀有な才能を持ったビジネスマンが日本にいたと知るにつれ、たまらなく嬉しくなる。

            (引用:よくわかる商社、日本実業出版社)


【 我れ百倍働けど悔いなし − 昭和を駆け抜けた伝説の商社マン 海部八郎】


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2009年09月30日

商社人物伝 (1) 金子直吉

 戦前に鈴木商店(日商岩井、双日のルーツ)という、日本のGDPの10%に達する売上を誇る商社があった。戦前に、三井物産、三菱商事を凌駕する勢いを誇っていた商社である。

 鈴木商店は、今はもう経済史の上でしか語られない名前だが、この会社がルーツとなり今に残る上場企業は、神戸製鋼所、帝人、サッポロビール、三井化学、商社の双日(元日商岩井)など目白押しである。

 高知県出身の金子直吉は20歳で神戸の砂糖問屋・鈴木商店に入り、当主の死亡にともない経営を任された。金子は厳密な意味では創業者ではなく、オーナーでもない。
しかし、一部の評価では日本市場で最強の企業家といわれる。三菱財閥を創業した岩崎弥太郎が、土佐藩や政界人を利用してのし上がったのに対して、金子直吉は商才と度胸により、神戸の一商店を日本一の大企業に育てた。

 台湾樟脳の販売権を獲得して鈴木商店を拡大し、第一次戦争をきっかけに三井物産、三菱商事をしのぐほどの巨大商社と化し、一代コンツェルンを作り上げた。
 特にその才覚を発揮した第一次世界大戦当時、「戦争は買いなり」と、買占めに乗り出し、直感は見事に的中した。
買い占めてあった鉄を川崎造船、三菱造船などに高く売り付けて大儲けをしていた。

 この勢いそのままに砂糖、大豆、石炭、はっか、米などの取引が面白いように拡大していった。
ロンドン支店をはじめ、各地の出先機関には強気の指示を出し続けた。
 「三井、三菱を圧倒するか、しからざるも彼等と並んで天下を三分するか、これ鈴木商店全員の理想とするところなり。小生がこれがため生命を5年10年、縮小するもさらにいうところあらず」

金子はズバ抜けたビジネスセンスと度胸で鈴木商店を拡大の一途に持っていった。
しかし、1927年、昭和最大の金融恐慌が起こると、メーンバンクを持つ三井、三菱と違い、台湾銀行からの融資に頼っていた鈴木商店は、銀行からの融資が打ち切られるのと同時に一気に破産、事業停止に追い込まれた。

 金子の人物像はまた、猛烈ビジネスマンのそれにたがわず、電車に乗って帰宅する際、同じ車両に乗りあわせた妻がお辞儀をしたのに気付かず、電車を降りてなおもついてくる妻の姿に初めて気づいたという。朝から夜まで仕事以外のことは一切考えなかった彼らしい話である。

 また、鈴木商店の倒産後、管財人が金子直吉の個人資産を調べに来た際にも、個人としての蓄財を全くしておらず、あぜんとしたという。金子の清廉さは際立っていた。
彼の育てた事業と人材の多くは、金子の意志を引き継ぎ、戦後日本の経済成長を担っていった。

 玉岡かおるの著作 ”お家さん (上・下巻)” に金子直吉の生涯が描かれています。

posted by ヒデキ at 00:24| Comment(0) | 伝説の商社マン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする