2018年02月18日

伝説の商社マン 住友商事、鈴木郎夫

【 伝説の商社マン (1) 住友商事、鈴木郎夫】
 僕のブログ ”総合商社の世界” で、最も人気のあった記事をご紹介します。 
◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 1987年に56歳で亡くなられた元住友商事・常務の鈴木朗夫氏は、連日遅刻をすることで有名でありながらも、テキパキと八面六臂の仕事のさばきかたをして、超特急で出世するという異彩を放った商社マンである。

 遅刻の常習犯で、会社の規律や日本的慣行に徹底的に反抗し、制度と闘いながらも、当時の大手6大商社の中で最年少役員に出世した。

 ビジネスマンとしてだけでなく、芸術を愛し、女性を愛し、スペインを ”わが故郷” と呼んだ男。
 色の黒い精悍な、日本人離れした風貌を持つ美男子であり、住友商事のオフィスで日中にOL達が見学に訪れるくらいに、日本でも海外でも、女性によくモテたという。 

 佐高信 著の ”逆命利君” に記された彼の生きざまは、まさに命に逆らいて君を利するもの。

 抜群の企画力、折衝力、語学力と自己の美学をもち、屈従と非合理が支配する陰湿な日本的企業社会に対する果敢な挑戦者であった。ジャン・コクトーに心酔し、自分をムッシュウと呼ばせたこの気障な教養人の誇り高き生と死のドラマは、ぐいぐいと引き寄せられる。

 会社の同僚と飲みに行くと、ブランデーを片手に、「レイモンラディゲの ”ドルジェル伯の舞踏会” は最高です。」 と評し、 「ラディゲは20歳で死んだけれども、老衰です。」 と、あふれんばかりの教養で若手社員を煙にまき、オピウム(阿片)という一本3万円もする香水を会社の役員室や自宅にふりまき、高度経済成長期に流行った ”モーレツビジネスマン” を社畜と呼んで軽蔑し、ヨーロッパの自由な文化を愛した。

 昭和6年に名古屋市で生まれ、東京大学経済学部を卒業後、住友商事に入社した鈴木は、最後は常務取締役業務本部長だった。世界を舞台にした商戦で、決して卑屈な妥協はせず、外国人バイヤーとも対等にわたりあったタフ・ネゴシエイターであった。

 20代後半の頃から、後に住友商事の社長となった伊藤正氏の部下として、常に右腕的存在だったらしい。

 猛烈課長・伊藤氏のもとで連日深夜まで働かされる生活に嫌気が差した鈴木氏は、当時はまだ無かったフレックスタイムを住友商事で勝手に実践し、毎日遅れて会社に出社し、たいていは昼頃出社していながら、就業規則にある ”遅刻届” に

 「靴ひもがうまく結べなかったため」 とか、
「深夜に会社の将来を考えていたら眠れなくなったため」 とか、好き勝手な理由を書いては提出していたそうだ。

 ある日、住商の人事担当役員から呼び出しを喰らい、連日の遅刻をとがめられると、
 「何か問題がありますか?」 と平然と答え、人事担当役員が
「問題がありますかどころではない。君は就業規則に違反しているのだ。」 と返すと、

 「本当ですか。ちっとも知りませんでした。就業規則のどの条文に反しているのでしょうか。遅刻をしたら ”遅刻届”を出すように書いてあるので、私はきちんと毎日、提出しているのです。むしろ私は表彰されるのかと思っておりました。」と答えたそうだ。

 住商の就業規則には、遅刻がいけないとはどこにも書いて無かったのである。 

 ところが仕事は抜群に出来て、鉄鋼部門で日本の鉄鋼製品を海外に売りさばいたものだから、上司の伊藤正はいつも人事・総務から鈴木をかばい、鈴木の主張に次第に耳を傾けるようになる。

 「鉄鋼貿易部はいつも夜10時過ぎまで仕事をするのだから、朝は9時半はじまりにしよう。」 というのを上司・伊藤は積極的に指示して人事にかけあったという。翌朝ムリして早く来ても、いい仕事は出来ないという理由でのフレックス制の採用である。日本企業で最初のフレックス制度を住商が採用したのは、まさに鈴木のおかげである。

 そんなことがあって、9時半始まりになっても、鈴木は早くて10時過ぎ、たいていは昼から出社したという。
 「それはそれ、これはこれ」 なのである。

 鈴木の書く英文ビジネスレターは簡潔で、要点を押さえてあり、若手社員の書く英文ビジネスレターを徹底的に赤字で添削してはしごいたという。鈴木の書いたレターを、三菱商事が、これぞ商社マンの書く模範的なレターだといって商業英語のテキストに入れたとか、外務省のテキストにも採択されたという話もあるくらいである。

 上司の伊藤が米国住友商事の社長として、先発の三菱商事や三井物産、丸紅を猛追し、売り上げを4倍にまで広げた陰には、鈴木がいたという。

 鈴木は、「フォーチュン500社作戦」 を実行し、アメリカの経済紙、フォーチュンに掲載されている大企業500社に全部コンタクトを取り、住商と取引をはじめるよう思いついたという。その中には既に住商と取引をしている会社もあれば、無い会社もある。

 アメリカの上位500社と取引を始めれば、上位の三菱商事や三井物産も視野に入る、というわけである。その甲斐あって、米国住友商事は飛躍的に売上高、利益を伸ばしたそうだ。

 そんなくらいだから、会社側の信望も厚く、ヨーロッパを愛する彼は、自分で勝手に出張をこしらえて、パリやスペインに1カ月から3カ月も短期駐在をしては、仕事を適当に切り上げては悠久の欧州大陸を放浪したという。パリの街角では、地下鉄のホームで眼が合ったパリジェンヌをナンパしたという逸話も残っている。

 自分より若く亡くなった鈴木朗夫の葬儀の席で伊藤正・元社長はこう弔辞を述べたという。
 

 「君は若い頃から異彩を放っていました。凡そサラリーマン的でない人間で、自分は会社に時間を売っているのではない、仕事を売っているのだと言って、出社時間も必ずしも正確でなく、いささか私をてこずらせたものですが、君の持つ企画力、折衝力、語学力は抜群のものであり、短期間のうちに鋼材輸出のすばらしい担当者として鉄鋼メーカーの人々からも絶大なる信用を受けられ、住商に鈴木ありとの名声をかちとられたのであります。」

 鈴木の葬儀には、キューバやフィリピンの駐日大使夫妻も参列していたという。いかにも国際人らしい鈴木の生き方だった。


 彼の伝記が出ています。

posted by ヒデキ at 22:38| Comment(0) | 伝説の商社マン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月24日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (3)

 自分の成功体験を実践させている

 ( 連載記事は下記のカテゴリー欄 ”伝説の商社マン”より通してご覧になれます。)

 今年の入社式で、岡藤は挨拶をした。
「新人は来る日も来る日も退屈なルーティンワーク。こんなはずじゃなかったとなる。けれども、ルーティンワークの積み重ねが大きな仕事を成し遂げる土台となる」

 個人の裁量、自由度が銀行よりは大きいと商社を選択し、さらに財閥系には向かないと就職先を伊藤忠に決めた岡藤。ただ、岡藤が入社した数年間は、奥歯を噛み締めるような毎日だった。

 岡藤が任された仕事は「受け渡し」と呼ばれる内勤で、営業が契約した洋服生地の船舶・船積みの指定、お客への配達手配、代金の回収などを行う地味な業務だった。「『受け渡し』を1年で終え、営業に出たものもいる」といわれていたように、受け渡しに携わる期間が短いほど優秀な新人社員とされた。岡藤は、4年間内勤に従事する。

 勇躍して入社した伊藤忠で、岡藤は会社社会の現実を思い知った。
「やっていけるのかというちょっと自信喪失みたいなもの」と岡藤は、当時を振り返る。受け渡し業務が3年目を迎え、課長からも「次は岡藤を営業に出す」といわれていたのに、社内の事情で異動がかなわなかったこともあった。

 ようやく4年目をすぎて、営業に出ることが決まるが、岡藤は再び苦境に立たされる。
「岡藤君は受け渡しでは優秀やけど、お客さんとようぶつかっているようですし、営業には向いてないですよ」

 課の会議で、先輩が岡藤に対して公然と異動に反対したのだ。おまえは営業には向いていない、と。ショックを通り越して、呆然とする一言だった。

 「やっぱり自分が頑張らんとね。おふくろの夢みたいなもんもあるますやん」
岡藤を支えたのは、幼少から苦労をかけ続けてきた母を何とか安心させてあげたいという思いだった。歯を食いしばり、考える。どうすれば、認められるか。何が会社に貢献できるか、と。

 たしかに、念願かなって営業に回された後も客とぶつかった。何度となく、客から罵声を浴びせられる。「あんた、もう帰り」「先に別の商社に払うわ」。

 当時の繊維業界は因習にがんじがらめになっていた。手形の支払期限は、180日、240日が当たり前。今では信じられない日数がまかり通っていた。なぜか?伊藤忠が卸した服地は、問屋からテーラー(仕立て屋)に回る。

 テーラーが資金を回収するのは注文された服が出来上がってから、逆方向に支払いが請求される。当時は、テーラーが一着、一着と丁寧に仕上げていたため非常に時間がかかり、手形の支払期限180日は常識とされていたが、商社にとっては相当不利な条件である。

 「営業に出て、僕はそれを改革、改善したんです。それが僕にとっての飛躍の一つになったんですわ」
岡藤が頭を絞って考え、たどり着いた答えが、「伊藤忠だけで扱えるどこでも買えない商品」だった。これまで、主導権を握れないために、利益の薄い商売に甘んじなければならなかった。

 主導権を握るための秘策が「ブランドビジネス」だった。ブランドビジネスとは取り扱う商品に無形資産である「商標」を付けて、販売する行為である。優れたブランドと認識されればされるほど、商品に付加価値がつき、より高い価格での販売が可能になる。

 岡藤が持ち込んだブランドビジネスで、伊藤忠の立場は激変。伊藤忠でしか取り扱えない商品を問屋が仕入れることで、問屋はテーラーに対して強気の商売が展開できるようになった。さらに伊藤忠は問屋に対しても主導権を握ることができた。岡藤が営業に移った2年目のことだった。岡藤はいう。

「やっぱり違うことをせなあかんと。天才的な営業マンなら苦労せんでも売っていける。せやけど、僕は違って客から説教されっぱなしやったから」ここまでの道のりは長かった。

 勇躍と営業に出た1年目に待っていたのは、「東大出てはるの?商売と勉強は違うで」に始まり「そりゃ、勉強通りにはいかんわ」まで、客の所にいけばまずは1時間説教された。

 「いい返したいことは客にいわないで、ノートに書いておけ」
と課長にいわれ、律儀に記し続けた日々もあった。砂を噛むような日々を過ごしながら岡藤は考えた。

 「僕みたいなキャラクターでも商売ができる方法は何だろうか」
岡藤は切羽詰まっていた。お客に儲けさせる方法こそが、自分を認めさせることであると。そう信じて、得意先の一つである「高島屋」に足を運ぶ日々が続いた。どんな客がいるのか。どんなライバルがどんな商品を持ってきているのか。

 何が売れているのか。岡藤は現場に足を運んでは観察し、考えた。目をつけたのは高島屋が扱っていた「エマニュエル・ウンガロ」「ピエール・カルダン」である。

「このブランドで生地をやったら絶対に売れる」
岡藤の読み通りだった。ブランドビジネスは、岡藤に活路となった。ところが、社内の軋轢はまだ残っていた。

「腹が立つことはあったけど。自分も自信ないし、頑張らなあかんかった」
岡藤は入社後、逆境の下、学び続けてきた。常に問題意識を持ち仕事をすれば必ず何かが引っかかってくる。それが商売になる。そのためには予習だ。

 「人よりも努力することでしょうな」
当時、孤立無援の中で絶対に失敗できないという緊張感は、岡藤のアンテナを研ぎ澄ませていったのだろう。
「自分の成功体験を実践させている。だから現場だ。だから数字だ。だから朝は早く来いって」

 ”客の立場に立って考え抜いた経験”

 1858年の創業以来、伊藤忠の代名詞であり、屋台骨を支え続けてきた繊維事業。現在その繊維カンパニーを率いる岡本均(専務執行役員)には忘れられない体験がある。岡藤というカリスマの伝説話は、岡本にも伝わってきていた。

 まだ岡本が部長になったばかりの頃、大阪本社での決算会議に出席していたときのことだ。季節は夏。岡藤が社長になって以来、予算会議では厳しいハードルが課せられる。毎月、繊維部門ではその数字を達成するための進捗状況が細部にわたって詰められる。それでも、どうしても下方修正せざるをえない局面は出てくる。

 岡本はそうした局面に追い込まれて、決算会議に臨んだ。岡藤から烈火の如く落とされるカミナリを想像すると身の置き所がなかった。岡藤が座る席の後ろの窓から入道雲が湧き上がり、空は一気に暗くなる。俺の所でカミナリ落ちるかな?と思うと心が沈んだ。

 だが、カミナリが落とされたのは、岡本の次に報告した部長だった。岡藤の数字への厳しさは徹底している。寝る前に決算の数字を確認、朝起きて再び確認するほどで、曖昧さは許されない。さらに岡本を驚かせたのは、交渉が困難に陥ったとき、予算達成が困難なときに岡藤が出す指示の的確さである。細部までここまで考えているのかと。

 伊藤忠にブランドビジネスを立ち上げ、伊藤忠の看板に仕立て上げた岡藤。現在繊維カンパニーでは約150のブランドを扱う。中身を入れ替えて、財産として保持し続けるものを峻別することが繊維カンパニーの財産である。

 岡本にはことのほか、忘れられないブランドがある。トミー・ヒルフィガー。同ブランドの経営権を取得し、売り上げを約4倍に高め、ブランドを確立させたのが伊藤忠だった。

 それが08年、トミーのライセンス供給元の強い意向を受けて、伊藤忠が連結対象子会社トミー社の普通株の一部売却、残る普通株については議決権を持たない優先株に転換し、同社に経営権を譲渡することになった。

 繊維カンパニーの中には、トミーのブランドを育て、売り上げを4倍にした自負もあり、虫のいいライセンス供給元へ怒りの声も聞こえてきていた。

 この経営権譲渡の最前線の交渉に当たったのが岡本だ。複雑さを極める交渉でも、岡藤は一貫して岡本に「弱気になるなよ」と声をかけ、極めて細部にわたる指示を与え続けた。
「ええか、契約の文言にこれは入れたらあかんで」岡藤は、交渉の行方も予言した。

 「もうそこまでいったら決裂や。そやけど、相手がここで折れてくる。折れるんは、こういう理由や」
岡藤は交渉相手の心理を読み、交渉の要諦を押さえる。岡藤にそれができるのも場数と行動、なにより客の立場に立って考え抜いた経験があるからだ。

  「岡藤社長就任からの4年間は、10年分を凝縮したようなダイナミズムとスピード感に溢れるようなものだ」と、ある伊藤忠社員は語る。住友商事を抜いて業界3位を目指すというかけ声も、「それはそうだが、現実には」と他人ごとのようにいう者もいたが、3期続けて住商を上回った今、これを話題にする社員はいない。

 (つづく)
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2014年08月22日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (1) 

 連載記事、『伝説の商社マン』 では、残業を8時で強制終了させ、朝7時からの出勤を社員に促して仕事の効率革命を起こして話題となった伊藤忠商事の岡藤正広氏をとりあげます。

 “幼少時、家業を手伝いながら遊びにも夢中、好奇心旺盛なやんちゃな子”

 岡藤は、大阪市平野区に生まれた。個人商店や中小メーカーが集まる下町。家の隣はたまたまソロバン教室だった。ソロバンの先生は休みの日でも隣だから、  
 「まあちゃん、そろそろいこうかあ」 と呼びに来ます。

 テレビでプロレス番組を見たかったんやけど。上級生にまじって習ってました。嫌々やったけど、上達ははやかったようです。

 おやじは戦地からの復員組です。裸一貫で商売をはじめました。市場で仕入れた野菜や惣菜を運び、食堂とかのお客さんに納める仕事です。車に乗ってついていくと、重宝がられてな。客先でよく、 「はーい、そろばん」 と呼ばれました。かなわんな、と思うけど、そろばんを使わずに暗算して金額をびしっと出してみせると、お客さんもびっくりする。

 おやじもうれしそうやった。ひそかな自慢だったのかもしれません。

 家の周りはびっしりと住宅が建ち、やっと入れるせまい路地の迷路みたいな街でした。おふくろは僕を心配してました。今はピンクとか黄色とか明るい色が好きやけど、小学生になる前に描いた絵は黒色ばかり使っていたからです。

 当時の性格からか、絵まで暗かったのかもしれません。絵画教室も通わされました。勉強は苦手ではなかったけれど、机の前にじっと座っているのが性にあいません。宿題はパパッと終わらせ、遊びまわっとりました。動物園でゴリラに向かって意思を投げつけ、起こられたこともあります。

 小学生時代は友達といっしょにバスの路線を終点まで歩いて旅したこともあります。お金はなかったから歩いたのです。楽しかったです。

 中学に進む頃にはやんちゃもおしまい。高校は進学校の府立高津高校に進みました。結核のため、大学は2年遅れながらも東京大学経済学部に進学しました。しかし、仕送りはなかった。

 最初は駒場寮暮らしでした。汚いし、5人部屋。風呂は夜9時になると火が消え、冬は水です。それでも安いから助かっていました。ところが、3年生になりキャンパスが本郷になると寮がない。どないしようと考えていたら、助け舟があったんです。

 江東区の亀戸でビー玉工場を経営する社長さんです。 「住み込みで息子に勉強を教えてくれればいい。」 と声をかけてもらいました。居候生活は食事とか風呂の時間とか、ごっつう神経を使いました。 「居候三杯目にはそっと出し。」 という気分だったかもしれません。でも、向こうは全然気にしていなかった。

 1年後、教えていた息子さんが大学に合格して、家庭教師としての仕事はそこで終わり。居候する理由がなくなってしまうと、今度は 「先生、宅建の免許とってくれないか。お金も払う。」 と言うてくれました。結局、居候は2年間。

 最後は 「ずっとウチを手伝わないか」 と誘うてもくれたけど、実現はしませんでした。自分で商売の面白さを見つけていたんです。

 在学中、商売のタネは身の回りにたくさんあった。サークルで知り合った女子大生から、
「寮で夜になって飲みものを買おうとしても、お店が遠い。外出も怖い。」 という話を聞きました。寮生は同じように不満を持っていたらしいんです。

 コンビニエンスストアもない時代です。そこで目を付けたのが自動販売機。学生やったけど、飲料メーカーとかけあって、女子大の寮に置いてもらったんです。売れた分の何%かもらいました。販売機を置く権利を押さえただけで、チャリンチャリンとお金が入ってくる。

 しばらくして販売機の権利は寮に譲ったけど、品物の売り買いだけが商売ではないと知りました。

 夏休みには、大阪の実家に帰省する前、新聞に2行広告を出しました。家庭教師先の募集です。 どんな人がどういう先生を求めているか考え抜いて、たった2行に凝縮しました。夏休みの1か月だけなら奮発すると読んで、

「 夏季特訓。当方東大生。」 関西には、東大生を一目見たいという人もいるかと思って書いたら、実家には電話がじゃんじゃんかかってきた。

 生徒は全部で10人くらい。1人あたり週に2、3回です。同じ地域の生徒をまとめて回れるように時間割を組んで、全員に勉強を教えました。思い返すと、効率よく生徒の家を回る要領は、商社に入社して貨物船のスケジュールを考えることとそっくりですわ。

 もし就職していなかったら、家庭教師の派遣会社をつくって身を立てていたかもしれません。

 (つづく) 

 【 商戦 伊藤忠 − 火の玉社員の半世記 】


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2013年09月22日

伝説の商社マン 住友商事、鈴木朗夫

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  連休の本日は、このブログで過去、読者の間で最も人気のありました記事を写真入りでご紹介します。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 1987年に56歳で亡くなられた元住友商事・常務の鈴木朗夫氏は、連日遅刻をすることで有名でありながらも、テキパキと八面六臂の仕事のさばきかたをして、超特急で出世するという異彩を放った商社マンである。

 遅刻の常習犯で、会社の規律や日本的慣行に徹底的に反抗し、制度と闘いながらも、当時の大手6大商社の中で最年少役員に出世した。

 ビジネスマンとしてだけでなく、芸術を愛し、女性を愛し、スペインを ”わが故郷” と呼んだ男。
 色の黒い精悍な、日本人離れした風貌を持つ美男子であり、住友商事のオフィスで日中にOL達が見学に訪れるくらいに、日本でも海外でも、女性によくモテたという。 

 佐高信 著の ”逆命利君” に記された彼の生きざまは、まさに命に逆らいて君を利するもの。

 抜群の企画力、折衝力、語学力と自己の美学をもち、屈従と非合理が支配する陰湿な日本的企業社会に対する果敢な挑戦者であった。ジャン・コクトーに心酔し、自分をムッシュウと呼ばせたこの気障な教養人の誇り高き生と死のドラマは、ぐいぐいと引き寄せられる。

 会社の同僚と飲みに行くと、ブランデーを片手に、「レイモンラディゲの ”ドルジェル伯の舞踏会” は最高です。」 と評し、 「ラディゲは20歳で死んだけれども、老衰です。」 と、あふれんばかりの教養で若手社員を煙にまき、オピウム(阿片)という一本3万円もする香水を会社の役員室や自宅にふりまき、高度経済成長期に流行った ”モーレツビジネスマン” を社畜と呼んで軽蔑し、ヨーロッパの自由な文化を愛した。

 昭和6年に名古屋市で生まれ、東京大学経済学部を卒業後、住友商事に入社した鈴木は、最後は常務取締役業務本部長だった。世界を舞台にした商戦で、決して卑屈な妥協はせず、外国人バイヤーとも対等にわたりあったタフ・ネゴシエイターであった。

 20代後半の頃から、後に住友商事の社長となった伊藤正氏の部下として、常に右腕的存在だったらしい。

 猛烈課長・伊藤氏のもとで連日深夜まで働かされる生活に嫌気が差した鈴木氏は、当時はまだ無かったフレックスタイムを住友商事で勝手に実践し、毎日遅れて会社に出社し、たいていは昼頃出社していながら、就業規則にある ”遅刻届” に

 「靴ひもがうまく結べなかったため」 とか、
「深夜に会社の将来を考えていたら眠れなくなったため」 とか、好き勝手な理由を書いては提出していたそうだ。

 ある日、住商の人事担当役員から呼び出しを喰らい、連日の遅刻をとがめられると、
 「何か問題がありますか?」 と平然と答え、人事担当役員が
「問題がありますかどころではない。君は就業規則に違反しているのだ。」 と返すと、

 「本当ですか。ちっとも知りませんでした。就業規則のどの条文に反しているのでしょうか。遅刻をしたら ”遅刻届”を出すように書いてあるので、私はきちんと毎日、提出しているのです。むしろ私は表彰されるのかと思っておりました。」と答えたそうだ。

 住商の就業規則には、遅刻がいけないとはどこにも書いて無かったのである。 

 ところが仕事は抜群に出来て、鉄鋼部門で日本の鉄鋼製品を海外に売りさばいたものだから、上司の伊藤正はいつも人事・総務から鈴木をかばい、鈴木の主張に次第に耳を傾けるようになる。

 「鉄鋼貿易部はいつも夜10時過ぎまで仕事をするのだから、朝は9時半はじまりにしよう。」 というのを上司・伊藤は積極的に指示して人事にかけあったという。翌朝ムリして早く来ても、いい仕事は出来ないという理由でのフレックス制の採用である。日本企業で最初のフレックス制度を住商が採用したのは、まさに鈴木のおかげである。

 そんなことがあって、9時半始まりになっても、鈴木は早くて10時過ぎ、たいていは昼から出社したという。
 「それはそれ、これはこれ」 なのである。

 鈴木の書く英文ビジネスレターは簡潔で、要点を押さえてあり、若手社員の書く英文ビジネスレターを徹底的に赤字で添削してはしごいたという。鈴木の書いたレターを、三菱商事が、これぞ商社マンの書く模範的なレターだといって商業英語のテキストに入れたとか、外務省のテキストにも採択されたという話もあるくらいである。

 上司の伊藤が米国住友商事の社長として、先発の三菱商事や三井物産、丸紅を猛追し、売り上げを4倍にまで広げた陰には、鈴木がいたという。

 鈴木は、「フォーチュン500社作戦」 を実行し、アメリカの経済紙、フォーチュンに掲載されている大企業500社に全部コンタクトを取り、住商と取引をはじめるよう思いついたという。その中には既に住商と取引をしている会社もあれば、無い会社もある。

 アメリカの上位500社と取引を始めれば、上位の三菱商事や三井物産も視野に入る、というわけである。その甲斐あって、米国住友商事は飛躍的に売上高、利益を伸ばしたそうだ。

 そんなくらいだから、会社側の信望も厚く、ヨーロッパを愛する彼は、自分で勝手に出張をこしらえて、パリやスペインに1カ月から3カ月も短期駐在をしては、仕事を適当に切り上げては悠久の欧州大陸を放浪したという。パリの街角では、地下鉄のホームで眼が合ったパリジェンヌをナンパしたという逸話も残っている。

 自分より若く亡くなった鈴木朗夫の葬儀の席で伊藤正・元社長はこう弔辞を述べたという。
 

 「君は若い頃から異彩を放っていました。凡そサラリーマン的でない人間で、自分は会社に時間を売っているのではない、仕事を売っているのだと言って、出社時間も必ずしも正確でなく、いささか私をてこずらせたものですが、君の持つ企画力、折衝力、語学力は抜群のものであり、短期間のうちに鋼材輸出のすばらしい担当者として鉄鋼メーカーの人々からも絶大なる信用を受けられ、住商に鈴木ありとの名声をかちとられたのであります。」

 鈴木の葬儀には、キューバやフィリピンの駐日大使夫妻も参列していたという。いかにも国際人らしい鈴木の生き方だった。


 彼の伝記が出ています。


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2013年02月09日

伝説の商社マン (12) 世界最強、丸紅の穀物トレーダー

商社最強の穀物部隊に成長 − 丸紅を穀物メジャーに押し上げた、辣腕トレーダーの活躍

 丸紅がアメリカ・カーギル、アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド(ADR)など、穀物の国際取引の約7割を牛耳る5大穀物メジャーの仲間入りを果たす。

 日本経済新聞は5月8日付朝刊1面で「丸紅は米国の穀物3位、ガビロン(ネブラスカ州)を買収する。親会社の米ファンドなどから38億ドル(約3000億円)前後で発行済みの全株式を取得する方針」と報じた。

 前日、7日の決算会見で、丸紅の朝田照男社長(63)はガビロン買収について「当社も米国に強い穀物トレーダーとして興味は持っている」と述べたのがヒントになったのかもしれない。

 ガビロンはカーギル、ADRに次ぐ米国3位の穀物大手。米国内に集荷設備など145カ所の拠点を持つ。年間の取扱量は2000万トン前後でトウモロコシや小麦が主力だ。

 丸紅の12年3月期の穀物取扱量は約2200万トンで、世界では6位グループだった。それがガビロンを傘下に収めると、丸紅の取扱量は年4000万トン規模となる。穀物メジャートップのカーギルのそれは、4000万トン前後で、カーギルと肩を並べ世界首位級に浮上する。

 穀物メジャーのお株を奪う積極投資で丸紅は、取扱量を急激に拡大している。穀物部隊の先頭に立っているのが、スカウトしてきた凄腕の穀物トレーダーたちだ。競争力のある買い付け力、安定的な販売力、効率的な輸送力の3つをいかにうまく組み合わせるかが穀物トレーダーの腕といわれている。

 2006年に当時、穀物の世界を動かす25人のトレーダーの1人に数えられていた食品専門商社、東食の若林哲氏(58)を引き抜いたのを手始めに、その後も丸紅は、穀物メジャー4社を渡り歩いた辣腕トレーダー7人を年収数億円の高待遇でスカウトした。

 東食時代の若林氏は、崩壊前のソ連で業界最大手の米カーギルを凌ぐ量のトウモロコシを売買するなど、世界に名を轟かせていた。

 丸紅は11年4月、旧食料部門を再編・改組し、穀物、畜産、農産の事業分野で構成する食糧部門を新たに立ち上げた。食糧部門長には執行役員に昇格した若林氏が就いた。転身5年で執行役員・食糧部門長になったわけだ。前例を見ないスピード出世といわれた。

 この間、丸紅の穀物部隊を率いてきたのが、昨年、常務執行役員に就任した岡田大介・前食料部門長(55)。

 丸紅の岡田氏と東食の若林氏は、若手の社員時代から、よきライバルだった。実は、若林氏を引き抜いてきたのは岡田氏である。近年の穀物部隊の躍進を引っ張ってきた岡田氏の一番の理解者である若林氏が、穀物部隊を引き継ぐことになった。

 若林氏など辣腕トレーダーの引き抜いたことにより、丸紅の穀物部隊は商社最強となり、最大の消費地の中国市場に勝機を見出した。

 中国食糧備蓄管理総公司(シノグレイン)傘下の油脂事業会社であるシノグレイン油脂(北京市)、飼料最大手の山東六和集団(山東省)と提携。両社との合弁会社を通じて中国内に15カ所程度の搾油工場を数年内に建設。丸紅が原料となる穀物を供給することになっている。

 中国向けの取引増加により04年に約700万トンだった穀物の取引量は現在では約2200万トンにまで急成長し、穀物で丸紅は総合商社のトップに立った。

 穀物部隊を率いる食糧部門長の若林氏のミッション(使命)は、手つかずの中東・アフリカへの展開。世界規模で穀物の集荷から販売、加工まで一貫体制を築き、「3000万トン・クラブ」と称される穀物メジャー入りを果たすことだった。

 若林氏はミッションを達成するまでの時間を大型M&A(企業の合併・買収)で短縮したことになる。ガビロンの買収により、穀物メジャーの仲間入りを果した。

 しかも、「3000万トン・クラブ」を一気に飛び越えて、穀物取扱量は4000万トン規模に拡大。世界首位の穀物メジャー、米カーギルに並ぶ。若林氏は居並ぶ穀物メジャーを抜き去り、トップランナーに躍り出たのである。

 丸紅の穀物メジャーへの挑戦は、新興国での既存の穀物メジャーと深刻な"対立"を生む可能性がある。丸紅の現在の取扱量は、既存のメジャーからの買い付けに支えられている。虎の尾を踏めば手痛いしっぺ返しを受けかねない。

 これまで丸紅は電力業界と紙パルプに強いといわれてきたが、いまや穀物が主力事業の筆頭となっている。

 【 総合商社図鑑 未来をつくる仕事がここにある 】

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2012年08月26日

伝説の商社マン 八尋俊邦、三井物産元社長

  トップが沈痛な顔でどうする 

 ( 日本経済新聞 ”日本の百人” 1985年より )

 無類のゴルフ好き。だがフォームに無頓着で、ボールを打つと決まって足が後ろに下がる。人呼んで 「 明治の大砲 」。友人の新日鉄元社長武田豊にいわせれば 「 大砲どころか種子島の火縄銃 」。

 それでいてスコアはいつも80台というのだから不思議である。

 いうまでもなく三井グループの実力者。商社マンになって45年。功成り名を遂げたというべきだろうが、この間、一度も切れ者、やり手、本命といわれたことはない。

 が、いつの間にか社長、会長と上りつめた。八尋のサラリーマン人生は、さながらそのゴルフのようでもある。

 小学生のころのあだ名が 「 昼あんどん 」。医学生を志し二浪までしたが、ことごとく失敗。医者をあきらめ一橋大から三井物産へ。会社勤めも順風満帆とはいかず、支店の課長をしていたとき、ゴム相場で大穴を開け、ヒラ社員に降格になった。

 同社の主流ともいえる化学製品畑を歩いたものの、役員になったのは定年直前だ。

 「 七転び八起き、といえば聞こえはいいが、実際はそんなものじゃない。浪人生活は灰色だったし、降格のときはもうだめだ、会社をやめようかとも思ったよ。 」 

 「 ネアカ 」 を自任する楽天性と気分転換の巧みさで敗者復活を果たした。
 石油化学会社に日参して亀の甲のイロハから教えを請い、相手に音を上げさせた努力家でもある。

 「 運は向こうからとことこ歩いてはこない 」 

 「 どんな職場、境遇にいてもプロになれ。 」 若い社員に好んで話す言葉に目新しさはないが、挫折体験が説得力を高める。

 「 遅くとも咲くべき花は咲きにけり。 」 33歳で結婚したときに挨拶状にこう書き添えた。 「 晩婚の言い訳ですよ 」 と笑うが、この人の足どりと符合する。

 (1985年当時) 商社冬の時代。加えて、この人をして 「 業のような 」 といわせるIJPC ( イラン・ジャパン石油化学 ) プロジェクトの重荷を背負うが、いつも天気晴朗といった風情を漂わす。

 「 トップが沈痛な顔をしていてどうします。皆の力を引き出すのが仕事なんですよ。 」

 「 商社は今まで重厚長大の一本足で立っていたが、これからは軽薄短小、ニューメディア、業界の垣根を越えたビジネスと何本もの足が必要ということだ。要するに適応力さえあれば商社マンは問題ない。 」 

 「 士魂商才 」 「 下意上達 」 を掲げ、正々堂々たるビジネスを前垂れ精神でやれ、リスクを恐れずチャレンジせよ、と説く。

 「 私はもうオンボロのトンボ ( 旧陸軍練習機 ) みたいなもの。離着陸が一番危ない。だから休みに家でゴロ寝というのはきらいなんだ。 」 

 今年もすでに12回、海外出張に出た。成田に着いても会社に直行、たまった仕事を片付けないと気が済まない。

 典型的な仕事人間だが、手料理で孫たちを喜ばせ、月に一度は歌舞伎を見る。引退したら屋台のおでん屋を開くのが夢とか。マルに八の字を染め抜いた前垂れ、のれんも用意したそうだ。

 ( 引用: 日経新聞、 日本の百人 1985年より )

 【 ネアカ経営論 八尋俊邦 】
 
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2012年08月11日

伝説の商社マン (10) 新浪剛司 

  新浪剛司 (53)、三菱商事からローソン社長へ

 世界を飛び回る商社マンにあこがれていました。ところが、念願かなって入社した三菱商事で配属されたのは砂糖部門。花形は穀物や水産で、砂糖はやっかい者扱いでした。

 入社前に起きた相場の大暴落で、砂糖部門は大きな損失を抱えていたのです。
「 砂糖のせいでボーナスが減った。 」 などと風当りも強く、同期からも
「 将来、大変だな。 」 と同情されました。

 それでも職場は 「 負けてはいかん 」 と意気軒高でした。リストラで人員も少なく、新人にも大事な仕事を任せる。

血気盛んで、人より早く出世しようと意気込んでいました。
新人の頃、先輩に 「どうしたら人より速く出世できるのでしょうか?」
とたずねました。

 「誰よりも早く出社して、誰よりも遅くまで残業しろ。人の2倍働けば、会社の中身は手に取るように分かる。それが出世の鍵だ。俺の言葉を疑うな。明日からやれ。」と言われました。

言われるがまま、その翌朝から実践しました。

 朝一番でオフィスに来ると、海外から山のようなテレックス(当時はEメールなどありませんでした)が届いていて、テレックスの山を整理しているうちに世界と進行している商談の中身がたちどころに分かり、同僚の一歩も二歩も先を行くことができました。

 米国留学の経験がある課長が早朝に読書会を開き、最先端のマーケティング理論を教えてくれるなど、刺激に満ちていました。井の中のかわずにはなるまい、との思いから社外の勉強会にも通い、同世代の官僚や異業種のビジネスマンと接触しました。

  念願の留学を果たす 

 米国留学したのは29歳の時です。ハーバード大のビジネススクールに行きたくて社内試験を受けましたが、2回連続不合格。通常は合格後に会社の推薦状をもらうのですが、自分で受けて留学しようと決意しました。

 留学試験を受け願書を出すと、合格。人事部も渋々認めてくれました。

 ハーバードでは必至でした。授業ではとにかく発言しなければならない。1割程度の学生は落第します。寝るのは3、4時間で、血尿も出ました。

 企業経営はどうあるべきか。財務やマーケティングなどの知識を詰め込みながら考えたことは今も役に立っています。

 居場所を探す 

 MBA ( 経営学修士号 ) を得て帰国したのですが、実は受け入れてくれる部署がなかった。当時はMBAの評価も高くなかったのです。最後に決まったのは、冷凍食品部門。興味がわかず、転職を考えました。

 「 この会社はやりたいことがやれる。冷凍食品が嫌ならほかの事業を提案しろ。 」 ある先輩にそう諭されて目が覚めました。フランスの会社と提携し、病院向け給食事業に参入しました。

 その後、経営難に陥っていた日本ケンタッキーフライドチキンの再建も手掛けました。6年間、外食産業に携わりました。

 課長だったころ、若手時代の勉強会で知遇を得たダイエーの創業者、中内功さんから 「 ローソンの株を持たないか 」 と打診がありました。

 親会社のダイエーを再建するための資産売却です。2000年に三菱商事は1700億円でローソン株の2割を取得し2001年には筆頭株主になりました。

 社長で行ってほしいと命じられたのは2002年、43歳のとき。佐々木幹夫 ( 現相談役 ) が 「 実るほど頭を垂れる稲穂かな、だ 」 と送り出してくれました。偉くなってもふんぞり返るな、との念押しです。

 三菱商事が1部上場企業社長に役員経験もない社員を出すのは初めてでした。

 骨を埋める 

 ローソンは予想以上に弱っており、激動の日々が始まりました。売れなくても粗利益が大きい商品を仕入れ、店舗に押し付けるような商売をしていたのです。

 退路を断たなければ抜本的改革はできないと三菱商事を退社しました。

 何より看板商品が欲しい。最初に手掛けたのはコメと具材にこだわったおにぎりです。加盟店への商品説明は自分でやりました。30分から1時間の説明会を1日に
4,5回開く。

 声はかれ、へとへとになる。その後、社員と飲む。骨をうずめる覚悟を見せたかったのです。若さゆえ乗り切れたのでしょう。経営が軌道に乗ったのは2年目です。

 インターネットと店舗の融合、アジアや中国での事業展開など、やるべきことはまだまだあります。セブン−イレブンと切磋琢磨しながら世界に冠たるコンビニにしたいと考えています。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 
 
   新浪剛史 − 1959年、神奈川県生まれ。1981年慶応大学経済学部卒、三菱商事入社。生活産業流通企画部でローソン事業兼外食事業ユニットマネージャーなどを経て、2002年5月からローソン社長。

 2010年4月から経済同友会代表幹事。趣味は読書、映画鑑賞、ゴルフ。好きな言葉は
「 垂線垂範 」。 

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 


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2012年06月25日

伝説の商社マン − 益田孝、三井物産創業者 (2) 

 人生の奇縁とは

 横浜では、日本の商人から 「先生、先生」 といわれて、外国商館との交渉に引っ張りだこだった。若いが、英語に堪能な旧幕軍の騎兵隊長は信頼度抜群で人脈を広げる。

 旧大名が藩札の始末のため外国人に金を借りた時期である。益田は、この交渉も引き受けて大いに顔を売った。この中に福岡藩があって重臣の団尚静に感謝された。益田が見込んで後に三井合名の理事長にした団琢磨はその養子である。人生の奇縁だろう。

 益田は無論、通訳で終わるつもりはない。だんだん商売が分かってきて 「 中屋徳兵衛 」 という屋号で茶と海産物の輸出問屋をやった。このころには 
 
 「 ちょっと見ただけで、この茶は伊勢、この茶はどこと判るようになった 」 が、商売はうまく行かなかった。

 そのころ 「アメ」 ( アメリカ一番館 ) こと米国のウォルシュ・ホール商会から雇いたいとの誘いがあった。日本人がまだ劣等国民扱いだったから、プライドの高い益田はそこにいた西洋人と同じ待遇にすること、一年ぐらいで辞めることを条件に受ける。

 コメが大凶作のときで、サイゴン米などを輸入した。これでコメの商売と、外国から直接輸入する手続きに習熟する。

 彼の人物を認めた男はほかにもいた。一年ばかりで商会をやめると、長州出身の豪商、岡田平蔵が訪ねてきた。大阪に造幣局ができて、日本の古金銀を買い集めて分析し、地金を売り込む計画があった。

 元薩摩藩士で新政府を去り実業人になった五代友厚 ( のち大阪商工会議所会頭 ) も仲間で、岡田は益田に今宮に置く分析所の運営を引き受けるように口説いた。承諾して大阪に行く。

 この商売は、相当、利益があったという。また岡田の店の監修も頼まれ、堂島の米相場を一通り知ったのも将来の糧になる。

 1872 (明治5)年春、横浜に戻っているときに、岡田と一緒に馬車で東京に行く機会があった。すると、やはり東京に行く馬車があって、頬に傷跡のある男が乗っていた。大蔵大輔 (次官級) の井上馨だ。

 益田には 「鋭い男」 と映った。政府が諸藩から引き受けた幕債の始末にからむ外貨の調達を、相場を煽らぬように横浜まで来て行った彼の手腕には感心していた。

 大森の休憩所で一緒になり岡田が引き合わせた。益田の存在を知っていたと思われる井上は、
 「 ゆっくりいろいろ話をしたいから、明日、吾輩のところに来い 」 と誘った。

 二人は知る由もないが、やがて三井物産を誕生させる運命的な出会いだった。
 
    ( つづく ) 
3000問題よりランダムに配信されるオンラインTOEIC模試です。




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2012年02月05日

伝説の商社マン (8) 丹羽宇一郎、伊藤忠商事 

 伝説の商社マン (8) 丹羽宇一郎、伊藤忠商事 その3 

 ( 前号より続く。連載記事はカテゴリー欄よりご覧になれます )

 伊藤忠アメリカの食料部門で穀物取引の専門家としての時期を過ごしたのち、アメリカからようやく帰国するという時期、じつはニューヨークの某企業に、 「 こっちに残れ 」 と誘われていました。

 給料は今の3倍出し、10年間は保証するという条件のヘッドハンティングでした。正直なところ少し迷いましたが、伊藤忠には育ててもらった恩義があります。ともかく一度、日本に帰ろうと決めたんです。

 それで帰ってみたら、やっぱり日本のほうがいい。お鮨はうまいし、銀座は楽しい。しかも、ニューヨークと違って安全です。ほっとしました。

 30代のほとんどをアメリカで過ごしたことは、いろいろな意味で私の自身につながりました。

 一つは、業界におけるポジションが確固としたものになっていったということです。もちろんかなり勉強し、あちこちの農村地帯をこの目で見てきていますから、そうした知識と経験は誰にも負けません。

 この頃、世界の穀物業界について日経新聞から原稿を頼まれることもありました。帰国してからは、一介の課長であったにもかかわらず、講演に行ったり学者の集まる討論会に参加したりしていました。

 そうのち業界誌に 「 アメリカ農業小史 」 や 「 アメリカ農業風土記 」 などの執筆をするようになり、 「 伊藤忠に丹羽という男がいる 」 と周りからも認めてもらうようになりました。

 ほぼ同時期に、アメリカの知人の書いた 『 シルバー・ウォー 』 という書籍の翻訳も担当し、日経新聞から出しています。銀相場の内幕を描いたものですが、特殊な業界で辞書に出ていない単語も多い。

 わからないところは、出張のときに著者に会って、直接話を聞いたりしていました。結構まじめだったんだと自分でも思います。

 それから、もう一つ自信につながったのは、 「 仕事で体は壊れない 」 というのがわかったことです。ニューヨークにいたときは、それこそ土日も関係なく働いていまし
た。

 普段は朝の5時か6時にヨーロッパからの電話でたたき起こされ、夜は日本を相手に残業つづきです。そんな生活をしていても、体は壊れません。

 実際に体を壊すのは、酒とか麻雀などのアフター・ファイブのほうだと私は思っているんです。私は付き合いで飲みに行くこともしょっちゅうでしたが、酒量はできるだけ自省していました。そうしていれば、どれだけ働いても体はもつんです。


 経営者になってからは、会社を引っ張っていくリーダーとして次のことに腐心しました。

 @ 部下との直接の対話。思いの共有。印象に残らなければ何も言わないのと同じ。全社員の対話集会。声なきは会社に対する反逆。

 A 匿名のEメール制度

 B エキサイティングな会社にするための実績給制度。

 まず @のコミュニケーションですが、私は2001年から全社員総会というものを実施してきました。休日を利用してやるのです。

 全社員総会にしても部会にしてもそうですが、トップに立つ人間は、みんなの前に顔を出すことが大事だと思います。社長の言いたいことは文章なんかで読んだりする以上に、顔をつきあわせた方が感じるものです。

 文章ではうまいこと隠すことはできますが、顔色ひとつから露呈する直接のコミュニケーションの場では、隠しごとなどできません。

 A  匿名のEメール制度は、社内の風通しを良くするために始めました。
社員とのEメールのやりとりは、現場からの提案を素早く経営に反映できるという利点がありました。

 たとえば、伊藤忠では総合商社の中で最も早く、2002年1月から育児・介護支援策を見直し、実現してきましたが、このきっかけとなったのが一通の女子社員からのEメールでした。

 B は、社長に就任した当初の基本方針として 「 エキサイティングな会社にしよう 」 
というのを掲げました。

 エキサイティングな会社とはどんな会社か? まずは儲かっている会社であることです。そして次に 「 儲かった分を分配してくれる会社 」 です。したがって、1999年から新しい人事制度を導入しました。

 年収のうち、一定部分を固定給 ( 月給 ) にして、残りを変動給 ( ボーナス ) にして、成果と実績に応じて支払うという形です。

 責任の重い人ほど変動給の比率を高くして、儲かれば変動給は2倍になるし、損すればゼロということもありえます。

 ところが新しい人事制度を導入したらあまりにも給料に差がつきすぎてしまって大きな問題になりました。制度上、わずかな利益でも評価しなきゃいけない部署もあるし、いろんな状況を加味したら大損する人も出てきました。

 そうなると能力にはほとんど差はないのに、同期でも1千万円近く差がついてしまったんです。

 もっとも、私としては固定給の500万さえあれば、変動給はたとえゼロでも生活は困らないと思っていました。

 ところが最近の若い人というのは違うんです。1千万円の年収があると、そのレベルで生活設計をしてしまう。変動給がないともう生活していけないと言うのです。

 よくよく話を聞いてみたら、都心の高級マンションにBMW。私がカローラに乗っているのに30代でBMW?

 それはお前、いくら何でもおかしいだろう。いったい奥さんはどんな生活しているんだ。金で着飾っているのか?

 いや、でも子供を学習塾に通わせなくてはいけないと社員は言う。そんなもの、塾に通わせなくたって死にはしません。

 そういう人は、たいてい 「 会社を辞めて2千万円の給料をくれる会社に行く。 」 と言います。確かに今は2千万円くれるかもしれませんが、業績が悪くなったらあっと言う間にクビです。

 どっちみちまた転職だ。よほど運のいいやつの話を聞きかじっている。

 「 お前、謙虚につつましやかに生きるのが人生だ。 」 と説教しましたが無駄でした。

 ただ、繰り返しになりますが、仕事をしていく上では、人は2種類の報酬を受け取ります。ひとつは見える報酬、そしてもう一つが見えざる報酬、つまり自分の成長や経験値です。

 人は、仕事によって磨かれる。仕事で悩み、苦しむからこそ人間的に立派になるんです。だから、 「 こんなつらいことやらされて 」 とゴチャゴチャ不満を言う前に、それを与えられたことを喜ぶべきなんです。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

  2000年3月期は単体で1630億円の赤字を計上して、無配でした。そのケジメをつける意味で、私は 「 当面、ただ働きする 」 と宣言しました。先期も無配で報酬カットを行っていましたから、これ以上ケジメをつけるとしたら無配しかなかったわけです。

 役員からは 「 我々も給料を返上する 」 という声が上がりましたが、これは気持ちだけ受け取って、私のみが無報酬としました。

 全員が横並びで給与返上とやったら、責任の所在もあいまいになる。また、彼らにも家族がいます。

 トップというのは、会社が苦しいときは真っ先に苦しみ、順調なときは最後にいい思いをする。そういうものだと思います。

 ただ一つ失敗したのは税金のことです。だいたい私は普段からいくら給料をもらっているか知らないし、興味もない。ワイフに任せきりです。

 だから、前年の所得によって税金が引かれるなどということも、考慮していなかった。
これは迂闊でした。給料を返上したうえ、さらに税金まで払わなくてはいけないわけですから。ワイフもさすがに呆れてやりくりしていました。

 もっとも、業績が上回ったら報酬はしっかりいただきますと言っていたので、実際に2000年7月から3か月で無給期間は終了しました。

 翌年は、連結で純利益705億円の過去最高益を達成しました。財務体質が改善されたことに加え、伊藤忠テクノサイエンスの上場に伴う売却益が大きかった。これは非常に運が良かったということでしょう。

 それから、さらに不良資産を洗い出したんです。本当にもう机の中に損をしまっていないかどうか。

 「 最後のバスが出るぞ。バスに乗り遅れたやつは一切面倒をみない。 」 という最後通告を出しました。すると、 「 じつはバスに乗れなかった 」 という不良資産が出てきて、2002年3月期にはそれをまた焼却しました。

 この後、時価会計制度への対応に向けて動き始めたのです。

 いずれにしても、私には 「 掃除屋 」 という言葉がぴったりです。もし、もう一度、数千億円の不良資産の償却という難題を突きつけられたら、やはり相当悩むと思います。

 自分ひとりのことだったらそれほど考えませんが、家族や社員、伊藤忠の歴史を築いてきた先輩にどれだけ迷惑をかけることになるのか。それが自分の決断ひとつで決まってしまうことの怖さ。どれだけ悩んでもなかなか結論の出るものではありません。

◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 
 
 その後の丹羽宇一郎氏 − 2010年6月、中国大使に就任

 日本郵政、NHK、日本航空、改革が求められる公益企業や団体のトップ候補に何度となく名前が挙がってきた。 「 伊藤忠に骨をうずめたい 」 と距離を置いてきた経営者が、民主党政権の要請を引き受けた。

 心境が変化した理由は 「 世代交代 」。 2010年4月に伊藤忠商事の社長に就任した岡藤正広氏は一回り年下の60歳。

 「 企業は若いやつに任せればいい。最後は国のため、社会のためになる仕事をしたい。 」 

 入社以来、食料部門一筋に歩んだ。米国の大豆取引で大失敗をしかけた際、上司から 
「 包み隠さず報告しよう 」 と諭された。

 社長だった2000年3月には社内の反対を押し切って不動産などで4500億円もの巨額損失を一括計上。翌年のV字回復につなげた。

 歯に衣着せぬ物言いで知られる。2010年3月まで務めた内閣府の地方分権改革推進委員会の委員長職では、 「 分権委員会の勧告が骨抜き同然 」 と官僚を厳しく批判。

 伊藤忠は中国の投資残高が約1200億円と商社で最多だが、自身は駐在経験がない。大使はさまざまな経済交渉にもかかわるだけに、公正さが求められる。

 読書家で、儒教が説く 「 温 ( 人としての温かみ ) 」 や 「 良 ( 人の美しさ、正直さ ) 」 をリーダーの条件と心得てきた。その真価が試される。




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2011年12月27日

伝説の商社マン (7) 丹羽宇一郎、伊藤忠商事

 伊藤忠商事元会長、現: 中国大使の丹羽宇一郎氏の伝記をお届けします。最高峰をきわめたビジネスマンの哲学が学べます。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 私が担当していたのは食料部門の大豆で、アメリカ大豆と中国大豆が中心でした。当時、日本の輸入は農産物が圧倒的に多かったのです。特にアメリカ大豆は年間で200万トン強、日本全体の輸入品の1、2位を占めていました。

 大豆は食料としてだけでなく、搾油や家畜飼料としての用途もあります。伊藤忠商事は業界で1、2位を争うシェアを占めていました。お客さんにも恵まれて、早朝から豆腐屋さんへ行って豆腐や油揚げの作り方を勉強させてもらったり、問屋さんに豆の見分け方を教わったりもしました。

 1968年からアメリカに駐在し、ベトナム戦争と黒人の人権を訴えた公民権運動、ケネディ大統領の暗殺から為替変動幅を広げるスミソニアン体制の発足と、激動のさなかで厳しい経済情勢を経験しました。とはいえ、伊藤忠アメリカの売上高のうち、約4分の1は私の担当していた大豆でした。

 輸出の主力相手国は日本でしたが、ノルウェーやデンマーク、ドイツ、オランダなどにもアメリカ産大豆を輸出して、三国間貿易 ( 日本を介さず、海外から海外へとモノを売って、稼いだ富を日本に持ち帰るビジネス ) を担っていました。

 ノルウェーには一つの大搾油工場があり、そこには一隻約1万4千トンの大豆を、年間で17隻くらい買い付けました。伊藤忠がノルウェー一国の必要な大豆を全部調達していました。

 ヨーロッパとは6〜7時間の時差がありますから、毎朝だいたい6時くらいに仕事の電話で起こされます。会社に向かう前に家で一仕事するのです。

 会社に行くと、今度は日本からテレックスで仕事が入ってきます。それを片付けているうちにシカゴの穀物取引所がオープンしますから、もう一日が戦争状態です。

 大豆は、米中西部の穀倉地帯、シカゴで買い付けます。もちろん買ったら終わりではなく、今度は運搬の手配にはいりますが、これには2つの方法があります。

 一つは世界を代表する穀物メジャー ( カーギル、ブンゲ、コンチネンタル・グレインなどの穀物商社 ) を使って流通経路を確保するもの。農家から港までの運搬、船の手配、船積み作業から輸出までの一連の流れを、穀物メジャーと話をして金額を決めていくケース。

 もう一つは、自分で船を買ってすべて自前で行う方法です。

  いずれにしても、穀物メジャーはCIAよりも情報網を持っていましたから、彼らとの付き合いは欠かせません。カーギルの本社のあるミネアポリスに行ったり、彼らの家庭に招待されたり、非常にいいお付き合いをさせていただきました。

 また、シカゴとニューヨークにも1時間の時差があり、シカゴの穀物取引所が終了するのはニューヨーク時間の午後2時15分でした。それからたいてい近所の食堂に行ってフランクフルト・ソーセージとビールで昼食をとる。

 ときどき、船を待つ販売会社の連中と飲みに行ったりしていましたが、夜になると私はオフィスに戻り、酔っぱらいながら日本にテレックスを打電していました。土日も出勤していましたから、東京本社の同僚が 「 あいつは体を壊すんじゃないか 」 と心配していたようです。

 当時の私はゴルフなんて亡国の遊びと思っていましたから、休日にゴルフもしない。見るに見かねて、日本からアシスタントを送ってくれました。その哀れな若手社員をこき使って、アメリカ大豆の輸出入を一手に担っていたというわけです。

 そんなニューヨークの駐在生活が5,6年したころ、私は穀物相場で400万〜500万ドル ( 当時の約15億円 ) の損失を出してしまいました。その年は干ばつが続いていたため、大豆の価格が高騰すると確信してどんどん買い込んでいたんです。

 ところが雨が降って一転、大豆は大豊作になると予想が出て、相場は一気に暴落です。 

 相場の世界は一所懸命やっているからといって結果が良くなるとは限らない、非情な世界です。 「 努力しました 」 ごっこをやっているわけではないのです。

 人一倍働いて、努力もしていただけに、挫折感もより一層大きなものでした。人の非情さ、自分の弱さを嫌というほど味わいました。温かく声をかけてくれる人もいれば、急によそよそしくなる人もいる。針のむしろのような状態で、会社をクビになることも考えました。

 この世には、神も仏もいないのか? そんな思いを抱えていました。

 そんなとき、 「 一切隠し事はするな! すべて会社に報告しろ。 」

「 お前がクビになるならその前に俺がクビになる 」 と、涙が出るようなことを言ってくれたのが、東京本社、食料部門の上司、筒井さんでした。彼が本社からの叱責の矢面に立ってくれていたんです。

 彼の信念は、 
 「 上司にも部下にも取引先にも妻にもウソはつかない。 」 というものでした。

 私が経営者として、 “ 清く、正しく、美しく ” にこだわり、口を酸っぱくして伊藤忠の商社マンに説教するはこの上司のおかげです。

 その後は、必死になって情報を集めました。まだ含み損の段階でしたから、挽回するチャンスはありました。民間の天気予報会社と契約し、客観的なデータを重ねて穀物相場を占いました。

 そこで、その年は秋口に霜が降りるということが分かり、その霜に賭けた。実際に寒波がやってきて、相場は急騰。含み損はみごとに帳消すことができました。

 私は無神論者ですが、このときばかりは神の存在を信じました。なるほど誰かが自分の努力を見ている。

 “ 努力する人間を、社会は放っておかない ” と実感したのはこのときです。

 もちろん、客観的にデータ分析をしていたわけですから、含み損を取り戻せたのは当然の帰結かもしれませんが、しかし人間の心は弱いものです。

 「 神も仏もいないの! 」 と思うほどの苦労を味わったとき、さらに努力を重ねるのは並大抵のことではありません。

 そんなとき、宗教を信じるかどうかは別として、誰かが必ず見ていると思って努力を続けたほうが、自分の心を納得させやすいのは事実でしょう。生きていくうえで、そう考えた方が説明のつくこともあります。

 私の解釈を言えば、 “ 神とは自分以外のすべて ” です。
すべての人が自分を見ている。そう信じて一生懸命やっていくことで、人間は強くなると思います。

         ( つづく )


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