2016年07月12日

伝説の商社マン 「突拍子もないことはしてないけど」伊藤忠・岡藤氏

伊藤忠 岡藤社長.jpg

 伊藤忠商事 岡藤正広社長

 中国最大の国有複合企業に約6000億円を出資するなど大胆な再編を次々仕掛け、朝型勤務など働き方改革を断行してきた伊藤忠商事の岡藤正広社長。

 もともと強みとする食料や繊維分野のみならず、機械など弱かった分野の業績を大幅に引き上げ、2016年3月期に最終利益で初めての商社首位を達成した立役者だ。商社業界で異彩を放つ岡藤流のマネジメント術について聞いた。

 2010年の社長就任以来、業界の常識を破り、タイや中国の巨大企業と組んだり、次々と改革を打ち出したりしてきました。「商社の変革者」と呼ぶ人もいます。

 「自分で意識したことはないが、『異能の経営者』と言われたり、今までの常識を覆したりしていると思われている。ただし僕自身は、あんまり変わったことをやるのは好きじゃない。突拍子のないことは一切やっていない。

 最近、お客さんや他の商社の人から『岡藤は基本に忠実に、まともなことをちゃんとやっている』と言われている。僕は自分でやり方を考えた後、課題などについて周囲に相談する。それで間違いがないとなれば、そろりそろりとやる。

 一気にはやらない。そしてその結果を検証していく。ただし考えたことをやり通し、社員に徹底させるためには、実行力やリーダーシップが必要。そこは僕の強みかもしれない」

 「社長就任前、僕が長く営業をやっていた繊維部門がある大阪から見ると、東京の伊藤忠は官僚的な印象だったんや。厳しいルールに縛られ、元気がない。例えばコンプライアンス違反が1つあると、他にも同じようなことがないかを全社で調査をする。

 そしてより厳しいルールで、網をかぶせたりする。そのために、ものすごい労力や時間をかける。もちろん、『築城3年、落城1日』という言葉があるように、長年かけて築いた信用が1回の違反で一瞬にして崩れてしまうことは事実。ルールはしっかり守らないとあかんが、縛りすぎると良くないと思った」

 「 伊藤忠は生活消費関連が事業の中心で、日銭を稼ぐためにも、どんどん攻めないとあかんし、伊藤忠の良さを生かすべきだと思った。だから社長になった時、こんなメッセージを出した。人間の身体では毎日、5千個のがん細胞が出ていると言われているが、免疫力で抑えている。

 ひとつのがん細胞があっても、全身に放射線照射をしたらどうなるか。がん細胞は死んでも、体力がなくなり、結局人間の体を壊してしまう。無理やり治療することはやめ、本来の強みを大切にしようというメッセージや 」
 
 働き方改革も次々実施しましたが、成果は出ていますか?

 「 僕が社長になる前は会議がものすごい多かった。資料もびっくりするくらい分厚い。毎週月曜日は情報連絡会が午前9時半から正午すぎまで。世界の拠点のトップや東京のカンパニープレジデントが集まって色々と報告する。

 でも同じ人間ばかりが集まっても、同じ話ばっかりや。皆、社長に報告しないとあかんから、無理やり言うことを集めてきよるわけや。現場の社員も自分の仕事をいったんやめて、会議のために情報を収集せんとあかん。

 分厚い資料をつくり、付箋をつけて整理したりする。手間ばかりかかる。ある海外支社長から本社の会議のために1週間、毎日お客さんのところにいかず、会議の準備ばかりしていると聞き、これではあかんと」

 「 僕自身、会議と資料が本当に嫌い。それで社長になった後、会議と資料をかなり減らした。今、情報連絡会は1カ月に1回。それで空いた時間を使って外を回る。今年の5月には1カ月間をかけて、事業会社三十数社を訪問し、経営トップとか幹部、社員に声をかけたりした。無駄な会議をするより、関係会社やお客さんを回った方がよっぽどいい」

 商社マンは夜の接待が仕事の基本だと思っていました。他社に先駆けて朝型勤務を実施しましたが、効果は上がっていますか。

 「 当時、ほぼすべての商社がフレックス制度を取り入れていた。伊藤忠も出社は午前10時ごろ。それで夜遅くまで残業したり、飲み会をしたり。ただ僕自身の経験からすると、残業する人間で仕事のできる人間は少ない。

 2次会、3次会まで飲み会をしても建設的な話はほとんどない。体力を消耗するし、家庭もうまくいかなくなる。伊藤忠は生活消費分野が中心なので、食料や繊維などお客さんの数がものすごく多い。お客さんから午前9時ごろに電話がかかってきても、まだ出社していないので対応が遅れる。それではあかんと 」

 「 そこでまずフレックスをやめようとしたら、人事部から『十数年間やっている制度。社員の既得権なので、労使関係の悪化につながる』と言われた。それで半年間、課長級以上を午前9時までに来させる試行をしたら、皆、問題なく早く来られることが分かった。

 それで午前8時前に始業する社員にはインセンティブとして軽食と割増賃金を出し、本格的な朝型勤務の導入に踏み切った」

 「 ただし、お客さんとの付き合いも必要。飲み会を1次会で午後10時までにやめる『110運動』をやっているが、やらざるを得ない人はもっと遅くまでやってもいい。ただし問題を起こすリスクが高いから、注意するように呼びかけている。

 ケンカしたり、パソコンを忘れたり。朝型勤務の効果は確実に出ている。午前8時前に来る人間は導入前の2割から4割に増えた。午後8時以降の残業は3割から6%に減った。午後10時以降の残業もほぼゼロ。残業代も減っている」

 「 僕も午前7時すぎには会社に来る。朝9時までにやらないとあかんと思うと、ものすごく仕事の効率が上がる。午前9時までに打ち合わせを何回も終えて、資料も全部そろえる。気持ちがすっきりするわな。来客者と面会する前に、新聞を読んだり、株式相場をみたりする時間もできる。毎日、午後5時半か午後6時には会食に出かけるため会社を出ている」

 15年にタイ最大財閥のチャロン・ポカパン(CP)グループと折半し、中国最大の国有複合企業、中国中信集団(CITIC)に1兆2000億円を投じる大勝負に出ました。日本企業とアジア財閥ががっちり連合を組むケースはありません。どうしてあの決断に至ったのですか。

 「 伊藤忠は158年の歴史がある。関西系の繊維商社から始まり、東京へ攻めて、総合化を進めようとしてきた。重厚長大の分野にも進出したが、壁は高かった。電力会社などのお客さんは(三菱商事や三井物産など)財閥系の総合商社に付いている。

 石油やLNG(液化天然ガス)などを長期にわたり買ってくれる契約をもらい、それを担保に開発できる。伊藤忠の場合、重厚長大のお客さんにアプローチしても、『糸偏(いとへん)商社にできますか』とか言われ、相手にされなかった。

 それではあかんと、自社でリスクを取りやってみたら、出資後に経営が悪化した東亜石油で大損したり。不動産でも大型投資で損を出してきた」

 「 伊藤忠の歴史は、そういう挫折の繰り返しや。なぜかを考えると、弱いところで勝負するから駄目なんやと。総合商社なので、弱い分野もやらないとあかんけれど、弱いところはそこそこでいいから、強い分野を伸ばそうと。それも食料とか、繊維とかの単発ではなく、生活消費関連全般で勝負しようと考えたわけや」

 「 狙うべき地域は、人口が増え、マーケットが広がる中国を中心とするアジア。そのためには現地の強力なパートナーがいると考え、CP、CITICとの資本提携を決めた。CPは東南アジア、中国での事業運営力がある。

 CITICは中国で知見と信用力があり、資金も持っている。財閥系商社が資源分野で強くなったのは電力会社などのお客と組んだから。伊藤忠はそれがない。その代わりに、生活消費関連でノウハウを持っている会社と組もうと考えた 」

 「 過去の先輩や先人たちの苦労や失敗を知って、その分析が大事や。そして過去の反省の上に立って違うやり方でやらないと、同じ失敗の繰り返しになる。営業マンは担当が変わると、前の担当者と同じ失敗を繰り返しがち。

 社長も一緒や。『今までの社長より自分の方が優れているから、同じことをやっても成功するかも』と思いがち。だから人の話をよう聞いて、自分も同じ間違いを犯すかも知れないことを、意識せんとあかん」

 16年3月期は純利益でついに総合商社首位になりました。今後の経営目標は?

 「 三菱商事や三井物産などが(減損損失による赤字転落で)試合放棄したようなもので、まだ不戦勝や。うれしいものではない。やっぱり相手が万全なときに勝ってこそ値打ちがある。浮かれていたら恥ずかしい。本当の勝負は今期や。

 現在の伊藤忠にとって一番のリスクは役員や社員の慢心。1位になったからといって、ふんぞりかえっていたら、『成り上がり者』とたたかれるかもしれない。商売人は常に謙虚な立場が必要で、上から目線になったらあかん」
 
「 どんな企業でも同じですが、特に商社では1年先がどうなるかも分からない。メーカーは世の中を自分たちでリードできる。例えば自動車だったらEV(電気自動車)とかを打ち出し、マーケットが後から付いていく。

 商社ではマーケットに自分たちが合わせないとあかん。商社は例えるならば、水に似ている。入れ物に合わせて形を変えないとあかんけれど、入れ物が丸なのか、四角になるのか、全く分からない。例えば資源で価格が急落することを3年前に誰が想像したやろか。だから一年一年が勝負になる。

 夢は、おこがましいが、常勝の三菱商事との商社2強時代をつくり、ナンバーワンを争っていきたい。これまで総合商社といったら財閥系商社というイメージがあった。今後は伊藤忠がリードしたい。 」





 【 商戦 伊藤忠、火の玉商社マンの半生紀 】


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2015年02月24日

伝説の商社マン 岡藤正広、伊藤忠商事社長 (3)

 自分の成功体験を実践させている

 今年の入社式で、岡藤は挨拶をした。
「新人は来る日も来る日も退屈なルーティンワーク。こんなはずじゃなかったとなる。けれども、ルーティンワークの積み重ねが大きな仕事を成し遂げる土台となる」

 個人の裁量、自由度が銀行よりは大きいと商社を選択し、さらに財閥系には向かないと就職先を伊藤忠に決めた岡藤。ただ、岡藤が入社した数年間は、奥歯を噛み締めるような毎日だった。

 岡藤が任された仕事は「受け渡し」と呼ばれる内勤で、営業が契約した洋服生地の船舶・船積みの指定、お客への配達手配、代金の回収などを行う地味な業務だった。「『受け渡し』を1年で終え、営業に出たものもいる」といわれていたように、受け渡しに携わる期間が短いほど優秀な新人社員とされた。

岡藤は、4年間内勤に従事する。勇躍して入社した伊藤忠で、岡藤は会社社会の現実を思い知った。

「やっていけるのかというちょっと自信喪失みたいなもの」と岡藤は、当時を振り返る。受け渡し業務が3年目を迎え、課長からも「次は岡藤を営業に出す」といわれていたのに、社内の事情で異動がかなわなかったこともあった。

 ようやく4年目をすぎて、営業に出ることが決まるが、岡藤は再び苦境に立たされる。
「岡藤君は受け渡しでは優秀やけど、お客さんとようぶつかっているようですし、営業には向いてないですよ」

 課の会議で、先輩が岡藤に対して公然と異動に反対したのだ。おまえは営業には向いていない、と。ショックを通り越して、呆然とする一言だった。

 「やっぱり自分が頑張らんとね。おふくろの夢みたいなもんもあるますやん」
岡藤を支えたのは、幼少から苦労をかけ続けてきた母を何とか安心させてあげたいという思いだった。歯を食いしばり、考える。どうすれば、認められるか。何が会社に貢献できるか、と。

 たしかに、念願かなって営業に回された後も客とぶつかった。何度となく、客から罵声を浴びせられる。「あんた、もう帰り」「先に別の商社に払うわ」。

 当時の繊維業界は因習にがんじがらめになっていた。手形の支払期限は、180日、240日が当たり前。今では信じられない日数がまかり通っていた。なぜか?伊藤忠が卸した服地は、問屋からテーラー(仕立て屋)に回る。

 テーラーが資金を回収するのは注文された服が出来上がってから、逆方向に支払いが請求される。当時は、テーラーが一着、一着と丁寧に仕上げていたため非常に時間がかかり、手形の支払期限180日は常識とされていたが、商社にとっては相当不利な条件である。

 「営業に出て、僕はそれを改革、改善したんです。それが僕にとっての飛躍の一つになったんですわ」
岡藤が頭を絞って考え、たどり着いた答えが、「伊藤忠だけで扱えるどこでも買えない商品」だった。これまで、主導権を握れないために、利益の薄い商売に甘んじなければならなかった。

 主導権を握るための秘策が「ブランドビジネス」だった。ブランドビジネスとは取り扱う商品に無形資産である「商標」を付けて、販売する行為である。優れたブランドと認識されればされるほど、商品に付加価値がつき、より高い価格での販売が可能になる。

 岡藤が持ち込んだブランドビジネスで、伊藤忠の立場は激変。伊藤忠でしか取り扱えない商品を問屋が仕入れることで、問屋はテーラーに対して強気の商売が展開できるようになった。さらに伊藤忠は問屋に対しても主導権を握ることができた。岡藤が営業に移った2年目のことだった。岡藤はいう。

「やっぱり違うことをせなあかんと。天才的な営業マンなら苦労せんでも売っていける。せやけど、僕は違って客から説教されっぱなしやったから」ここまでの道のりは長かった。

 勇躍と営業に出た1年目に待っていたのは、「東大出てはるの?商売と勉強は違うで」に始まり「そりゃ、勉強通りにはいかんわ」まで、客の所にいけばまずは1時間説教された。

 「いい返したいことは客にいわないで、ノートに書いておけ」
と課長にいわれ、律儀に記し続けた日々もあった。砂を噛むような日々を過ごしながら岡藤は考えた。

 「僕みたいなキャラクターでも商売ができる方法は何だろうか」
岡藤は切羽詰まっていた。お客に儲けさせる方法こそが、自分を認めさせることであると。そう信じて、得意先の一つである「高島屋」に足を運ぶ日々が続いた。どんな客がいるのか。

どんなライバルがどんな商品を持ってきているのか。何が売れているのか。岡藤は現場に足を運んでは観察し、考えた。目をつけたのは高島屋が扱っていた「エマニュエル・ウンガロ」「ピエール・カルダン」である。

「このブランドで生地をやったら絶対に売れる」
岡藤の読み通りだった。ブランドビジネスは、岡藤に活路となった。ところが、社内の軋轢はまだ残っていた。

「腹が立つことはあったけど。自分も自信ないし、頑張らなあかんかった」
岡藤は入社後、逆境の下、学び続けてきた。常に問題意識を持ち仕事をすれば必ず何かが引っかかってくる。それが商売になる。そのためには予習だ。

 「人よりも努力することでしょうな」

当時、孤立無援の中で絶対に失敗できないという緊張感は、岡藤のアンテナを研ぎ澄ませていったのだろう。
「自分の成功体験を実践させている。だから現場だ。だから数字だ。だから朝は早く来いって」

 ”客の立場に立って考え抜いた経験”

 1858年の創業以来、伊藤忠の代名詞であり、屋台骨を支え続けてきた繊維事業。現在その繊維カンパニーを率いる岡本均(専務執行役員)には忘れられない体験がある。岡藤というカリスマの伝説話は、岡本にも伝わってきていた。

 まだ岡本が部長になったばかりの頃、大阪本社での決算会議に出席していたときのことだ。季節は夏。岡藤が社長になって以来、予算会議では厳しいハードルが課せられる。毎月、繊維部門ではその数字を達成するための進捗状況が細部にわたって詰められる。それでも、どうしても下方修正せざるをえない局面は出てくる。

 岡本はそうした局面に追い込まれて、決算会議に臨んだ。岡藤から烈火の如く落とされるカミナリを想像すると身の置き所がなかった。岡藤が座る席の後ろの窓から入道雲が湧き上がり、空は一気に暗くなる。俺の所でカミナリ落ちるかな?と思うと心が沈んだ。

 だが、カミナリが落とされたのは、岡本の次に報告した部長だった。岡藤の数字への厳しさは徹底している。寝る前に決算の数字を確認、朝起きて再び確認するほどで、曖昧さは許されない。さらに岡本を驚かせたのは、交渉が困難に陥ったとき、予算達成が困難なときに岡藤が出す指示の的確さである。細部までここまで考えているのかと。

 伊藤忠にブランドビジネスを立ち上げ、伊藤忠の看板に仕立て上げた岡藤。現在繊維カンパニーでは約150のブランドを扱う。中身を入れ替えて、財産として保持し続けるものを峻別することが繊維カンパニーの財産である。

 岡本にはことのほか、忘れられないブランドがある。トミー・ヒルフィガー。同ブランドの経営権を取得し、売り上げを約4倍に高め、ブランドを確立させたのが伊藤忠だった。

 それが08年、トミーのライセンス供給元の強い意向を受けて、伊藤忠が連結対象子会社トミー社の普通株の一部売却、残る普通株については議決権を持たない優先株に転換し、同社に経営権を譲渡することになった。

 繊維カンパニーの中には、トミーのブランドを育て、売り上げを4倍にした自負もあり、虫のいいライセンス供給元へ怒りの声も聞こえてきていた。

 この経営権譲渡の最前線の交渉に当たったのが岡本だ。複雑さを極める交渉でも、岡藤は一貫して岡本に「弱気になるなよ」と声をかけ、極めて細部にわたる指示を与え続けた。
「ええか、契約の文言にこれは入れたらあかんで」岡藤は、交渉の行方も予言した。

 「もうそこまでいったら決裂や。そやけど、相手がここで折れてくる。折れるんは、こういう理由や」
岡藤は交渉相手の心理を読み、交渉の要諦を押さえる。岡藤にそれができるのも場数と行動、なにより客の立場に立って考え抜いた経験があるからだ。

  「岡藤社長就任からの4年間は、10年分を凝縮したようなダイナミズムとスピード感に溢れるようなものだ」と、ある伊藤忠社員は語る。住友商事を抜いて業界3位を目指すというかけ声も、「それはそうだが、現実には」と他人ごとのようにいう者もいたが、3期続けて住商を上回った今、これを話題にする社員はいない。

 (つづく)

 【 日本の7大商社 − 世界に類を見ない最強のビジネスモデル 】






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2015年01月24日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (3)

 自分の成功体験を実践させている

 ( 連載記事は下記のカテゴリー欄 ”伝説の商社マン”より通してご覧になれます。)

 今年の入社式で、岡藤は挨拶をした。
「新人は来る日も来る日も退屈なルーティンワーク。こんなはずじゃなかったとなる。けれども、ルーティンワークの積み重ねが大きな仕事を成し遂げる土台となる」

 個人の裁量、自由度が銀行よりは大きいと商社を選択し、さらに財閥系には向かないと就職先を伊藤忠に決めた岡藤。ただ、岡藤が入社した数年間は、奥歯を噛み締めるような毎日だった。

 岡藤が任された仕事は「受け渡し」と呼ばれる内勤で、営業が契約した洋服生地の船舶・船積みの指定、お客への配達手配、代金の回収などを行う地味な業務だった。「『受け渡し』を1年で終え、営業に出たものもいる」といわれていたように、受け渡しに携わる期間が短いほど優秀な新人社員とされた。岡藤は、4年間内勤に従事する。

 勇躍して入社した伊藤忠で、岡藤は会社社会の現実を思い知った。
「やっていけるのかというちょっと自信喪失みたいなもの」と岡藤は、当時を振り返る。受け渡し業務が3年目を迎え、課長からも「次は岡藤を営業に出す」といわれていたのに、社内の事情で異動がかなわなかったこともあった。

 ようやく4年目をすぎて、営業に出ることが決まるが、岡藤は再び苦境に立たされる。
「岡藤君は受け渡しでは優秀やけど、お客さんとようぶつかっているようですし、営業には向いてないですよ」

 課の会議で、先輩が岡藤に対して公然と異動に反対したのだ。おまえは営業には向いていない、と。ショックを通り越して、呆然とする一言だった。

 「やっぱり自分が頑張らんとね。おふくろの夢みたいなもんもあるますやん」
岡藤を支えたのは、幼少から苦労をかけ続けてきた母を何とか安心させてあげたいという思いだった。歯を食いしばり、考える。どうすれば、認められるか。何が会社に貢献できるか、と。

 たしかに、念願かなって営業に回された後も客とぶつかった。何度となく、客から罵声を浴びせられる。「あんた、もう帰り」「先に別の商社に払うわ」。

 当時の繊維業界は因習にがんじがらめになっていた。手形の支払期限は、180日、240日が当たり前。今では信じられない日数がまかり通っていた。なぜか?伊藤忠が卸した服地は、問屋からテーラー(仕立て屋)に回る。

 テーラーが資金を回収するのは注文された服が出来上がってから、逆方向に支払いが請求される。当時は、テーラーが一着、一着と丁寧に仕上げていたため非常に時間がかかり、手形の支払期限180日は常識とされていたが、商社にとっては相当不利な条件である。

 「営業に出て、僕はそれを改革、改善したんです。それが僕にとっての飛躍の一つになったんですわ」
岡藤が頭を絞って考え、たどり着いた答えが、「伊藤忠だけで扱えるどこでも買えない商品」だった。これまで、主導権を握れないために、利益の薄い商売に甘んじなければならなかった。

 主導権を握るための秘策が「ブランドビジネス」だった。ブランドビジネスとは取り扱う商品に無形資産である「商標」を付けて、販売する行為である。優れたブランドと認識されればされるほど、商品に付加価値がつき、より高い価格での販売が可能になる。

 岡藤が持ち込んだブランドビジネスで、伊藤忠の立場は激変。伊藤忠でしか取り扱えない商品を問屋が仕入れることで、問屋はテーラーに対して強気の商売が展開できるようになった。さらに伊藤忠は問屋に対しても主導権を握ることができた。岡藤が営業に移った2年目のことだった。岡藤はいう。

「やっぱり違うことをせなあかんと。天才的な営業マンなら苦労せんでも売っていける。せやけど、僕は違って客から説教されっぱなしやったから」ここまでの道のりは長かった。

 勇躍と営業に出た1年目に待っていたのは、「東大出てはるの?商売と勉強は違うで」に始まり「そりゃ、勉強通りにはいかんわ」まで、客の所にいけばまずは1時間説教された。

 「いい返したいことは客にいわないで、ノートに書いておけ」
と課長にいわれ、律儀に記し続けた日々もあった。砂を噛むような日々を過ごしながら岡藤は考えた。

 「僕みたいなキャラクターでも商売ができる方法は何だろうか」
岡藤は切羽詰まっていた。お客に儲けさせる方法こそが、自分を認めさせることであると。そう信じて、得意先の一つである「高島屋」に足を運ぶ日々が続いた。どんな客がいるのか。どんなライバルがどんな商品を持ってきているのか。

 何が売れているのか。岡藤は現場に足を運んでは観察し、考えた。目をつけたのは高島屋が扱っていた「エマニュエル・ウンガロ」「ピエール・カルダン」である。

「このブランドで生地をやったら絶対に売れる」
岡藤の読み通りだった。ブランドビジネスは、岡藤に活路となった。ところが、社内の軋轢はまだ残っていた。

「腹が立つことはあったけど。自分も自信ないし、頑張らなあかんかった」
岡藤は入社後、逆境の下、学び続けてきた。常に問題意識を持ち仕事をすれば必ず何かが引っかかってくる。それが商売になる。そのためには予習だ。

 「人よりも努力することでしょうな」
当時、孤立無援の中で絶対に失敗できないという緊張感は、岡藤のアンテナを研ぎ澄ませていったのだろう。
「自分の成功体験を実践させている。だから現場だ。だから数字だ。だから朝は早く来いって」

 ”客の立場に立って考え抜いた経験”

 1858年の創業以来、伊藤忠の代名詞であり、屋台骨を支え続けてきた繊維事業。現在その繊維カンパニーを率いる岡本均(専務執行役員)には忘れられない体験がある。岡藤というカリスマの伝説話は、岡本にも伝わってきていた。

 まだ岡本が部長になったばかりの頃、大阪本社での決算会議に出席していたときのことだ。季節は夏。岡藤が社長になって以来、予算会議では厳しいハードルが課せられる。毎月、繊維部門ではその数字を達成するための進捗状況が細部にわたって詰められる。それでも、どうしても下方修正せざるをえない局面は出てくる。

 岡本はそうした局面に追い込まれて、決算会議に臨んだ。岡藤から烈火の如く落とされるカミナリを想像すると身の置き所がなかった。岡藤が座る席の後ろの窓から入道雲が湧き上がり、空は一気に暗くなる。俺の所でカミナリ落ちるかな?と思うと心が沈んだ。

 だが、カミナリが落とされたのは、岡本の次に報告した部長だった。岡藤の数字への厳しさは徹底している。寝る前に決算の数字を確認、朝起きて再び確認するほどで、曖昧さは許されない。さらに岡本を驚かせたのは、交渉が困難に陥ったとき、予算達成が困難なときに岡藤が出す指示の的確さである。細部までここまで考えているのかと。

 伊藤忠にブランドビジネスを立ち上げ、伊藤忠の看板に仕立て上げた岡藤。現在繊維カンパニーでは約150のブランドを扱う。中身を入れ替えて、財産として保持し続けるものを峻別することが繊維カンパニーの財産である。

 岡本にはことのほか、忘れられないブランドがある。トミー・ヒルフィガー。同ブランドの経営権を取得し、売り上げを約4倍に高め、ブランドを確立させたのが伊藤忠だった。

 それが08年、トミーのライセンス供給元の強い意向を受けて、伊藤忠が連結対象子会社トミー社の普通株の一部売却、残る普通株については議決権を持たない優先株に転換し、同社に経営権を譲渡することになった。

 繊維カンパニーの中には、トミーのブランドを育て、売り上げを4倍にした自負もあり、虫のいいライセンス供給元へ怒りの声も聞こえてきていた。

 この経営権譲渡の最前線の交渉に当たったのが岡本だ。複雑さを極める交渉でも、岡藤は一貫して岡本に「弱気になるなよ」と声をかけ、極めて細部にわたる指示を与え続けた。
「ええか、契約の文言にこれは入れたらあかんで」岡藤は、交渉の行方も予言した。

 「もうそこまでいったら決裂や。そやけど、相手がここで折れてくる。折れるんは、こういう理由や」
岡藤は交渉相手の心理を読み、交渉の要諦を押さえる。岡藤にそれができるのも場数と行動、なにより客の立場に立って考え抜いた経験があるからだ。

  「岡藤社長就任からの4年間は、10年分を凝縮したようなダイナミズムとスピード感に溢れるようなものだ」と、ある伊藤忠社員は語る。住友商事を抜いて業界3位を目指すというかけ声も、「それはそうだが、現実には」と他人ごとのようにいう者もいたが、3期続けて住商を上回った今、これを話題にする社員はいない。

 (つづく)
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2015年01月15日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (2) 

” 東大卒業文集に 「伊藤忠入社 三菱商事、三井物産殲滅」 と書いた男 ”

 繊維事業を源流に持つ非財閥系商社の雄は、今や業績が絶好調。「非資源ナンバー1」を掲げながら、リスクとポテンシャルを冷静に見分け、数字の達成にこだわる岡藤経営はどこから来ているのか。伝説の商社マンを追う。

「か、け、ふ」(稼ぐ、削る、防ぐ)、「110」(一次会まで、午後10時にお開き)、「朝型勤務」など、伊藤忠商事社長、岡藤正広のこれらの興味深い語録は、何度もマスコミに取り上げられてきた。

2010年社長に就任して以来、岡藤は 「住友商事を抜いて業界3位になる」 「非資源分野でナンバー1商社を目指す」 目標を掲げ、実行してきた。14年3月期の純利益は3102億円と過去最高を記録。

業績を牽引したのは、「非資源分野ナンバー1」の通り、住宅、資材・不動産などの住生活・情報部門で46%の伸びで、米食品大手「ドール・フード・カンパニー」(以下、ドール)からアジアでの青果事業、グローバルな加工食品事業を買収した食品部門は、26%増加するなど、非資源で稼げる体質が強化されたことを証明した。

社長就任以来、 “伊藤忠・岡藤” の軌跡を、岡藤の発言や資料などでたどると、あることに気づかされる。「組織は生き物で、組織を率いる者の人格、性格、意思が如実に反映される」と。岡藤の際立ったキャラクターなくして、業界3位の伊藤忠は存在しないだろう。

好調な伊藤忠の業績を反映し、商社の新御三家は、「三菱商事、三井物産、伊藤忠商事」と呼ぶ声もある。では岡藤は、どのように伊藤忠を変えたのか。

"伊藤忠入社 三菱商事、三井物産殲滅"

45L12QB。この暗号めいた数字、アルファベットの羅列には意味がある。45は昭和45年(1970年)。L12は文科系の文科1類と文科2類。Qはクラス名。最後のBは第2外国語でドイツ語の履修。つまり、昭和45年に東京大学に入学した文科1類(法学部)、文科2類(経済学部)の合同クラスを意味している。

大阪府立高津高校から東大文科2類に入学した岡藤は、このクラスに在籍。ここからは後に財務省事務次官の杉本和行(現公正取引委員会委員長)、現在検事総長の椅子に座る大野恒太郎など、エスタブリッシュメントが輩出されている。

昭和45年といえば、東大闘争の煽りから東大が入試中止を決定した翌年で、混沌とした空気が学内を覆い、東大闘争の象徴である安田講堂は廃墟のように放置されたまま。こんな時代に岡藤は東大での4年間を過ごした。

当時、東大生の主流だったのは、私立御三家と呼ばれる開成、麻布、武蔵や教育大付属駒場(現筑波大付属駒場)といった都内の東大入試定番校の出身者で、親元から通学し、金銭的な余裕もある知り合い同士だった。

対照的なのが地方の高校出身者で、ある地方出身者のための学生寮費は、月額100円。朝食40円。夕食120円。100円の寮費を払えず、100円足らずの食費も惜しむ学生は少なくなかった。

岡藤は、孤高の学生だった。当時流行だった片方の目が隠れんばかりの長髪でガリガリに痩せていた岡藤を、「教室で寝息を立てる姿が今でも思い浮かぶくらい不思議と存在感があった」と、岡藤とはゼミの同期だった

小川孔輔は回想する。
「別に友達必要ないわ」
岡藤はこう公言していたようだ。

孤高の学生が励んだのは、アルバイトだった。当時、東京・亀戸にあった岡藤の下宿先を訪れたことのある数少ない友人、宮本正樹にとって、岡藤は立派なビジネスマンに見えた。宮本によれば、岡藤にはただならぬ商才があったという。

岡藤は、どこからか都内の女子大学内に自動販売機を設置し、中身の入れ替えなども行う仕事を見つけてきた。ただ、現場に行かずに、アルバイトとして雇っていた女子学生を使いお金を回収していて、当時の学生からは考えられない額のお金を稼いでいた。

夏休みごとに大阪の実家に帰省し、家庭教師のアルバイトに精を出した岡藤。毎日効率よく数軒回り、稼いだお金を学費と生活費に充てる。高校3年のとき、父を亡くし、母と弟となった岡藤にとって、自活は当然だった。

岡藤の人生の分岐点に立ち会ったのも宮本である。就職活動がチラチラ頭をかすめ始める大学3年の頃、クラスメートの父親の縁で、岡藤と宮本は当時、東京・日本橋に本社を構えていた商社「日商岩井」(現双日)の人事部を訪ねることになる。財閥系商社に対抗しようと意気込む日商岩井にとって、東大生は喉から手が出るほど欲しい。

昼食が終わりかけた頃、人事担当者がおもむろに声をかけた。「ところで、どうや宮本君」。もちろん就職の誘いである。宮本は間髪いれず、「はい。お願いします」と頭を下げた。人事担当者の視線は岡藤に向かった。だが、岡藤は即答せずに、その場をかわす。

岡藤が宮本同様頭を下げていれば、「伊藤忠の岡藤」は存在しない。その後、岡藤と宮本は同じ商社業界に身を置きながら、旧交を温めていない。

後年、岡藤が社長になったお祝いをしようと同級生の数名が祝賀会を催したことがあった。友人付き合いをしていなかった岡藤は困ったのだろう。卒業後、連絡を取っていなかった宮本にこんな頼みごとをする。「知らん奴ばっかりだから、来てくれへんか」。

岡藤を祝賀会に招いた中に東大卒業後、三菱商事に入社した田名眞一(現三菱アルミニウム常務取締役)がいた。

祝賀会では、主賓の岡藤自ら、酒を注ぎながら笑いを誘う。帰り際、一人一人のコートを手に取り、「どこのコートや」といってブランドをチェックする岡藤。この姿に田名は感心していた。大学時は岡藤とそれほど親しくなかったが、卒業時の小冊子に岡藤が書いた一文が田名には、忘れられない。

「伊藤忠入社 三菱商事、三井物産殲滅」

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 【 人は仕事で磨かれる 丹羽宇一郎、伊藤忠商事元会長 】

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2014年08月22日

伝説の商社マン 岡藤正広 伊藤忠商事社長 (1) 

 連載記事、『伝説の商社マン』 では、残業を8時で強制終了させ、朝7時からの出勤を社員に促して仕事の効率革命を起こして話題となった伊藤忠商事の岡藤正広氏をとりあげます。

 “幼少時、家業を手伝いながら遊びにも夢中、好奇心旺盛なやんちゃな子”

 岡藤は、大阪市平野区に生まれた。個人商店や中小メーカーが集まる下町。家の隣はたまたまソロバン教室だった。ソロバンの先生は休みの日でも隣だから、  
 「まあちゃん、そろそろいこうかあ」 と呼びに来ます。

 テレビでプロレス番組を見たかったんやけど。上級生にまじって習ってました。嫌々やったけど、上達ははやかったようです。

 おやじは戦地からの復員組です。裸一貫で商売をはじめました。市場で仕入れた野菜や惣菜を運び、食堂とかのお客さんに納める仕事です。車に乗ってついていくと、重宝がられてな。客先でよく、 「はーい、そろばん」 と呼ばれました。かなわんな、と思うけど、そろばんを使わずに暗算して金額をびしっと出してみせると、お客さんもびっくりする。

 おやじもうれしそうやった。ひそかな自慢だったのかもしれません。

 家の周りはびっしりと住宅が建ち、やっと入れるせまい路地の迷路みたいな街でした。おふくろは僕を心配してました。今はピンクとか黄色とか明るい色が好きやけど、小学生になる前に描いた絵は黒色ばかり使っていたからです。

 当時の性格からか、絵まで暗かったのかもしれません。絵画教室も通わされました。勉強は苦手ではなかったけれど、机の前にじっと座っているのが性にあいません。宿題はパパッと終わらせ、遊びまわっとりました。動物園でゴリラに向かって意思を投げつけ、起こられたこともあります。

 小学生時代は友達といっしょにバスの路線を終点まで歩いて旅したこともあります。お金はなかったから歩いたのです。楽しかったです。

 中学に進む頃にはやんちゃもおしまい。高校は進学校の府立高津高校に進みました。結核のため、大学は2年遅れながらも東京大学経済学部に進学しました。しかし、仕送りはなかった。

 最初は駒場寮暮らしでした。汚いし、5人部屋。風呂は夜9時になると火が消え、冬は水です。それでも安いから助かっていました。ところが、3年生になりキャンパスが本郷になると寮がない。どないしようと考えていたら、助け舟があったんです。

 江東区の亀戸でビー玉工場を経営する社長さんです。 「住み込みで息子に勉強を教えてくれればいい。」 と声をかけてもらいました。居候生活は食事とか風呂の時間とか、ごっつう神経を使いました。 「居候三杯目にはそっと出し。」 という気分だったかもしれません。でも、向こうは全然気にしていなかった。

 1年後、教えていた息子さんが大学に合格して、家庭教師としての仕事はそこで終わり。居候する理由がなくなってしまうと、今度は 「先生、宅建の免許とってくれないか。お金も払う。」 と言うてくれました。結局、居候は2年間。

 最後は 「ずっとウチを手伝わないか」 と誘うてもくれたけど、実現はしませんでした。自分で商売の面白さを見つけていたんです。

 在学中、商売のタネは身の回りにたくさんあった。サークルで知り合った女子大生から、
「寮で夜になって飲みものを買おうとしても、お店が遠い。外出も怖い。」 という話を聞きました。寮生は同じように不満を持っていたらしいんです。

 コンビニエンスストアもない時代です。そこで目を付けたのが自動販売機。学生やったけど、飲料メーカーとかけあって、女子大の寮に置いてもらったんです。売れた分の何%かもらいました。販売機を置く権利を押さえただけで、チャリンチャリンとお金が入ってくる。

 しばらくして販売機の権利は寮に譲ったけど、品物の売り買いだけが商売ではないと知りました。

 夏休みには、大阪の実家に帰省する前、新聞に2行広告を出しました。家庭教師先の募集です。 どんな人がどういう先生を求めているか考え抜いて、たった2行に凝縮しました。夏休みの1か月だけなら奮発すると読んで、

「 夏季特訓。当方東大生。」 関西には、東大生を一目見たいという人もいるかと思って書いたら、実家には電話がじゃんじゃんかかってきた。

 生徒は全部で10人くらい。1人あたり週に2、3回です。同じ地域の生徒をまとめて回れるように時間割を組んで、全員に勉強を教えました。思い返すと、効率よく生徒の家を回る要領は、商社に入社して貨物船のスケジュールを考えることとそっくりですわ。

 もし就職していなかったら、家庭教師の派遣会社をつくって身を立てていたかもしれません。

 (つづく) 

 【 商戦 伊藤忠 − 火の玉社員の半世記 】


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2013年09月22日

伝説の商社マン 住友商事、鈴木朗夫

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  連休の本日は、このブログで過去、読者の間で最も人気のありました記事を写真入りでご紹介します。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 1987年に56歳で亡くなられた元住友商事・常務の鈴木朗夫氏は、連日遅刻をすることで有名でありながらも、テキパキと八面六臂の仕事のさばきかたをして、超特急で出世するという異彩を放った商社マンである。

 遅刻の常習犯で、会社の規律や日本的慣行に徹底的に反抗し、制度と闘いながらも、当時の大手6大商社の中で最年少役員に出世した。

 ビジネスマンとしてだけでなく、芸術を愛し、女性を愛し、スペインを ”わが故郷” と呼んだ男。
 色の黒い精悍な、日本人離れした風貌を持つ美男子であり、住友商事のオフィスで日中にOL達が見学に訪れるくらいに、日本でも海外でも、女性によくモテたという。 

 佐高信 著の ”逆命利君” に記された彼の生きざまは、まさに命に逆らいて君を利するもの。

 抜群の企画力、折衝力、語学力と自己の美学をもち、屈従と非合理が支配する陰湿な日本的企業社会に対する果敢な挑戦者であった。ジャン・コクトーに心酔し、自分をムッシュウと呼ばせたこの気障な教養人の誇り高き生と死のドラマは、ぐいぐいと引き寄せられる。

 会社の同僚と飲みに行くと、ブランデーを片手に、「レイモンラディゲの ”ドルジェル伯の舞踏会” は最高です。」 と評し、 「ラディゲは20歳で死んだけれども、老衰です。」 と、あふれんばかりの教養で若手社員を煙にまき、オピウム(阿片)という一本3万円もする香水を会社の役員室や自宅にふりまき、高度経済成長期に流行った ”モーレツビジネスマン” を社畜と呼んで軽蔑し、ヨーロッパの自由な文化を愛した。

 昭和6年に名古屋市で生まれ、東京大学経済学部を卒業後、住友商事に入社した鈴木は、最後は常務取締役業務本部長だった。世界を舞台にした商戦で、決して卑屈な妥協はせず、外国人バイヤーとも対等にわたりあったタフ・ネゴシエイターであった。

 20代後半の頃から、後に住友商事の社長となった伊藤正氏の部下として、常に右腕的存在だったらしい。

 猛烈課長・伊藤氏のもとで連日深夜まで働かされる生活に嫌気が差した鈴木氏は、当時はまだ無かったフレックスタイムを住友商事で勝手に実践し、毎日遅れて会社に出社し、たいていは昼頃出社していながら、就業規則にある ”遅刻届” に

 「靴ひもがうまく結べなかったため」 とか、
「深夜に会社の将来を考えていたら眠れなくなったため」 とか、好き勝手な理由を書いては提出していたそうだ。

 ある日、住商の人事担当役員から呼び出しを喰らい、連日の遅刻をとがめられると、
 「何か問題がありますか?」 と平然と答え、人事担当役員が
「問題がありますかどころではない。君は就業規則に違反しているのだ。」 と返すと、

 「本当ですか。ちっとも知りませんでした。就業規則のどの条文に反しているのでしょうか。遅刻をしたら ”遅刻届”を出すように書いてあるので、私はきちんと毎日、提出しているのです。むしろ私は表彰されるのかと思っておりました。」と答えたそうだ。

 住商の就業規則には、遅刻がいけないとはどこにも書いて無かったのである。 

 ところが仕事は抜群に出来て、鉄鋼部門で日本の鉄鋼製品を海外に売りさばいたものだから、上司の伊藤正はいつも人事・総務から鈴木をかばい、鈴木の主張に次第に耳を傾けるようになる。

 「鉄鋼貿易部はいつも夜10時過ぎまで仕事をするのだから、朝は9時半はじまりにしよう。」 というのを上司・伊藤は積極的に指示して人事にかけあったという。翌朝ムリして早く来ても、いい仕事は出来ないという理由でのフレックス制の採用である。日本企業で最初のフレックス制度を住商が採用したのは、まさに鈴木のおかげである。

 そんなことがあって、9時半始まりになっても、鈴木は早くて10時過ぎ、たいていは昼から出社したという。
 「それはそれ、これはこれ」 なのである。

 鈴木の書く英文ビジネスレターは簡潔で、要点を押さえてあり、若手社員の書く英文ビジネスレターを徹底的に赤字で添削してはしごいたという。鈴木の書いたレターを、三菱商事が、これぞ商社マンの書く模範的なレターだといって商業英語のテキストに入れたとか、外務省のテキストにも採択されたという話もあるくらいである。

 上司の伊藤が米国住友商事の社長として、先発の三菱商事や三井物産、丸紅を猛追し、売り上げを4倍にまで広げた陰には、鈴木がいたという。

 鈴木は、「フォーチュン500社作戦」 を実行し、アメリカの経済紙、フォーチュンに掲載されている大企業500社に全部コンタクトを取り、住商と取引をはじめるよう思いついたという。その中には既に住商と取引をしている会社もあれば、無い会社もある。

 アメリカの上位500社と取引を始めれば、上位の三菱商事や三井物産も視野に入る、というわけである。その甲斐あって、米国住友商事は飛躍的に売上高、利益を伸ばしたそうだ。

 そんなくらいだから、会社側の信望も厚く、ヨーロッパを愛する彼は、自分で勝手に出張をこしらえて、パリやスペインに1カ月から3カ月も短期駐在をしては、仕事を適当に切り上げては悠久の欧州大陸を放浪したという。パリの街角では、地下鉄のホームで眼が合ったパリジェンヌをナンパしたという逸話も残っている。

 自分より若く亡くなった鈴木朗夫の葬儀の席で伊藤正・元社長はこう弔辞を述べたという。
 

 「君は若い頃から異彩を放っていました。凡そサラリーマン的でない人間で、自分は会社に時間を売っているのではない、仕事を売っているのだと言って、出社時間も必ずしも正確でなく、いささか私をてこずらせたものですが、君の持つ企画力、折衝力、語学力は抜群のものであり、短期間のうちに鋼材輸出のすばらしい担当者として鉄鋼メーカーの人々からも絶大なる信用を受けられ、住商に鈴木ありとの名声をかちとられたのであります。」

 鈴木の葬儀には、キューバやフィリピンの駐日大使夫妻も参列していたという。いかにも国際人らしい鈴木の生き方だった。


 彼の伝記が出ています。


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2013年06月29日

ミスター三菱商事、逝去される

 元三菱商事社長の諸橋晋六(もろはし・しんろく)氏(90歳) が6月23日、死去した。
1947年に上智大学を卒業後、三菱商事に入社、1986年に前任社長の近藤健男氏が急逝したため、急きょ社長に就任し、1992年まで務めた。

 円高不況で 「商社冬の時代」 といわれる中、売り上げ規模から利益重視の経営に転換。事業の選択と集中を進めるなど経営再建を断行した。会長、相談役を経て2004年から特別顧問。

 2002年の日韓共催サッカーワールドカップでは開催準備委員会副会長を務め、招致に尽力した。

  諸橋晋六氏は逆境にこそ真価を発揮する経営者だった。1986年は円高不況で企業の商社外しが広がった 「商社冬の時代」。前任社長で同期入社の近藤健男氏が在任約5か月で急逝し、失速した巨艦のかじ取りを突如、任された。

 近藤氏と2人でまとめた経営再建計画を形見と思い断行し、それまでの売上至上主義を思い切って捨て、採算重視の経営に転換した。それは、大手商社の先駆けとなり、やがて業界慣行となる。

 また、従来の口銭商売 (右のものを左に売って薄いマージンを得る商法) から現在のM&Aや投資銀行型経営に舵を切り、事業投資会社としての商社経営に先鞭をつけた。

 諸橋氏が胆力を磨いたのは船舶部長のときだ。未曽有の造船、海運不況で倒産する海運会社が続出し、担保回収でタンカーや貨物船など10隻以上を抱え込む羽目になった。

 「ここからが修羅場だ」 と、毎朝、丸の内の本社ビルに入る前に腹に力を入れて覚悟を決めてから出社したという。この時も小型船や洋上設備の受注をかき集めて乗り切った。

 部下から土佐犬にたとえられた豪快さと、文学や芸術に造詣が深く時には詩作にふける繊細さを併せ持つ人だった。豊かな人間味は幼少期の環境がはぐくんだ。父親は漢字研究の第一人者の諸橋徹次氏で東京・雑司ヶ谷の生家はどこもかしこも漢書の山だったという。

  その3軒先に作家の菊池寛宅があり、1歳下の長男と遊ぶために毎日のように上がり込んだという。中学時代に始めたサッカーへの情熱は尽きることがなかった。日本サッカー協会(JFA) 元会長の川淵三郎氏は

 「2002年のワールドカップ日韓大会の招致活動で果たされた貢献は財界人で断トツ」 と振り返る。海外の国家元首に会うたびに日本支持を頼んで回った。

  東京・丸の内の三菱商事本社では4月初めまで諸橋氏の姿が毎日見られた。試合終了のホイッスルが鳴る寸前まで戦い抜いた人生だった。
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2013年05月03日

伝説の商社マン − 住友商事 中村邦晴社長

 住友商事の中村邦晴社長(62)は、入社11年目の1984年に中米プエルトリコ駐在となり、管理職としてのキャリアが本格的に始まった。

 マツダと共同出資した米国の自動車販売会社から、プエルトリコの代理店に出向しました。任地に不満はありませんでしたが、上司に 「副社長にして下さい」 と掛け合いました。

 車の販売だけでなく、現地仕様にするための部品調達や補修、財務管理など全てを経験したかったからです。

 従業員70〜80人の所帯で日本人駐在員は社長と私の2人だけでしたが、仕事は面白かった。当時、現地のマツダ車の販売台数は月1,000台程度。

 トヨタ自動車や日産自動車の販売台数も多くはなく、昼食時にライバルの在庫場をこっそり見にいっては台数を数えました。 「売れてるな」 とか 
「売れてないから販促を打ってくるぞ」 とか色々と考えました。

 ところが1985年のプラザ合意後の円高で販売価格を大幅に引き上げざるを得なくなります。

 前年末に私は 「もっと売れる」 と注文台数を月1,700台程度へ一気に増やしたばかり。値上げで売れなくなった車が港にあふれ、上司から 「 どうするんだ 」 とひどく怒られました。

 「売ります」 とたんかを切り、1台当たり300〜500ドルの販売補助金を付けるなどして攻勢に出ました。その結果、現地での販売台数の新記録を達成し、同僚もみな祝福してくれました。

 このとき、2人の元上司が 「よくあれだけの台数を注文した。在庫がなければ車は売れないよな」 とねぎらいの言葉をかけてくれました。

 「ずいぶん販売補助金を使ってしまった」 という負い目を感じていましたが、前向きに仕事をしようとしていた姿勢を評価してもらったと本当にうれしく感じました。

 そして1986年に帰国し、イタリア・フィアットの販売代理店てこ入れに奔走します。

 フィアットの輸入代理店で子会社として設立したサミットモータースジャパンに営業のナンバー2として出向しました。フィアットは9割がマニュアル車でオートマチック社が主流の日本ではなかなか売れず、サミットの業績もぼろぼろでした。そこで打開策を練り、組織も大きく替えました。何とか販売台数を増やそうと、イタリアのフィアット本社にも秘策を持っておしかけました。

 フィアットグループのスポーツ車である 「アルファロメオ」 の国内販売店とサミットを統合する案です。しかし、最終的にフィアット本体が日本に進出するのが決まり、サミットは清算することになりました。

 サミットには、輸入車を売りたいと入社してきてくれた新卒の社員もいました。社員42人全員の再就職先は見つけましたが、一部の人は夢をあきらめきれずに半年ほどで再就職先を退社しました。

 今も 「夢を奪ってしまった」 と後悔の念が絶えません。

 そして1992年に2度目の中米プエルトリコ駐在になりました。

 最初の駐在先と同じマツダ車の現地販売代理店に社長として赴任しました。本社でいうと、部長級のポストです。

 2度目の駐在前まで、私は部下にとって非常に怖い上司でした。事前に命じていたことができていない部下を大声で呼びつけては 「何をやっているんだ」 とよく怒鳴っていたからです。

 人は立場が上になればなるほど孤独を感じるようになります。プエルトリコで社員が遠くで話しているのを目にすると、私のことを非難しているのではないかと猜疑心 (さいぎしん) にさいなまれるようになりました。

    部下の話を聞いてコミュニケーションをとるよう努めました。

    現地社員の話に耳を傾ける中で、働き方に対する考え方も変わりました。

    現地社員と酒を飲んでいるときに、 「 どうして日本人は遅くまで働くんだ 」 と聞かれたことがあります。

 「 将来引退したときに楽しい生活を送るためだ 」 と答えると、彼らは 「 今には今の楽しみしかできない 」 と驚いた表情をしました。30代は30代、40代は40代の楽しみがあるというのです。その話を聞いて “確かにそうだな” と腑に落ちました。

 それ以来、月に1度は平日に休みを取り、家族との時間を大切にするようにしました。怒らなくなったことといい、あまりの変わりように周囲が目を白黒させていました。

 1997年に帰国してしばらくたった後、新規ビジネスの企画を主導した。当時、商社の自動車事業は、ビジネスモデルの転換を迫られていました。メーカーが力をつけて自ら海外販売を積極的に手がけるようになり、商社ができる仕事の領域は狭まる一方だったからです。

 そこで 「世界で2番目に大きい市場の日本でもっと何かできるのではないか 」 と上司に掛け合いました。4億9000万円の予算を獲得し、国内向け新規ビジネスの検討をはじめました。

 数人の若手から中堅と夜中まで議論し、自動車のローン事業など4つの新会社を作りました。

 当時、みんなで何かを決めても、周囲に何度も 「俺が言ってるからそうしたんじゃないのか」 としつこく問いただすのが常でした。

 「 俺が上司だから従っているんじゃないか。 」 と思う猜疑心があったからです。あるとき 「 部下をもっと信用して下さい。信用していないからそういう行動になるんです。 」 と部下に指摘されました。

 それを契機に吹っ切れて、部下を信じようと思いました。

 1人でできることには限りがありますが、みんなでオープンに議論をするとよりよいアイデアが生まれることが少なくありません。

 熱い思いで 「みんなでやろうよ」 という雰囲気を作り出す重要性をそのときに実感しました。住友商事の社長になった今、改めて社員に心を開いてコミュニケーションを取ることを実践しています。

 【 2次会は出るな! ~20人で年商340億! カリスマ・レアメタル商社マンが教える! ビジネスマンのための「稼ぐ力」をつける13のレッスン~】

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2013年02月09日

伝説の商社マン (12) 世界最強、丸紅の穀物トレーダー

商社最強の穀物部隊に成長 − 丸紅を穀物メジャーに押し上げた、辣腕トレーダーの活躍

 丸紅がアメリカ・カーギル、アーチャー・ダニエルズ・ミッドランド(ADR)など、穀物の国際取引の約7割を牛耳る5大穀物メジャーの仲間入りを果たす。

 日本経済新聞は5月8日付朝刊1面で「丸紅は米国の穀物3位、ガビロン(ネブラスカ州)を買収する。親会社の米ファンドなどから38億ドル(約3000億円)前後で発行済みの全株式を取得する方針」と報じた。

 前日、7日の決算会見で、丸紅の朝田照男社長(63)はガビロン買収について「当社も米国に強い穀物トレーダーとして興味は持っている」と述べたのがヒントになったのかもしれない。

 ガビロンはカーギル、ADRに次ぐ米国3位の穀物大手。米国内に集荷設備など145カ所の拠点を持つ。年間の取扱量は2000万トン前後でトウモロコシや小麦が主力だ。

 丸紅の12年3月期の穀物取扱量は約2200万トンで、世界では6位グループだった。それがガビロンを傘下に収めると、丸紅の取扱量は年4000万トン規模となる。穀物メジャートップのカーギルのそれは、4000万トン前後で、カーギルと肩を並べ世界首位級に浮上する。

 穀物メジャーのお株を奪う積極投資で丸紅は、取扱量を急激に拡大している。穀物部隊の先頭に立っているのが、スカウトしてきた凄腕の穀物トレーダーたちだ。競争力のある買い付け力、安定的な販売力、効率的な輸送力の3つをいかにうまく組み合わせるかが穀物トレーダーの腕といわれている。

 2006年に当時、穀物の世界を動かす25人のトレーダーの1人に数えられていた食品専門商社、東食の若林哲氏(58)を引き抜いたのを手始めに、その後も丸紅は、穀物メジャー4社を渡り歩いた辣腕トレーダー7人を年収数億円の高待遇でスカウトした。

 東食時代の若林氏は、崩壊前のソ連で業界最大手の米カーギルを凌ぐ量のトウモロコシを売買するなど、世界に名を轟かせていた。

 丸紅は11年4月、旧食料部門を再編・改組し、穀物、畜産、農産の事業分野で構成する食糧部門を新たに立ち上げた。食糧部門長には執行役員に昇格した若林氏が就いた。転身5年で執行役員・食糧部門長になったわけだ。前例を見ないスピード出世といわれた。

 この間、丸紅の穀物部隊を率いてきたのが、昨年、常務執行役員に就任した岡田大介・前食料部門長(55)。

 丸紅の岡田氏と東食の若林氏は、若手の社員時代から、よきライバルだった。実は、若林氏を引き抜いてきたのは岡田氏である。近年の穀物部隊の躍進を引っ張ってきた岡田氏の一番の理解者である若林氏が、穀物部隊を引き継ぐことになった。

 若林氏など辣腕トレーダーの引き抜いたことにより、丸紅の穀物部隊は商社最強となり、最大の消費地の中国市場に勝機を見出した。

 中国食糧備蓄管理総公司(シノグレイン)傘下の油脂事業会社であるシノグレイン油脂(北京市)、飼料最大手の山東六和集団(山東省)と提携。両社との合弁会社を通じて中国内に15カ所程度の搾油工場を数年内に建設。丸紅が原料となる穀物を供給することになっている。

 中国向けの取引増加により04年に約700万トンだった穀物の取引量は現在では約2200万トンにまで急成長し、穀物で丸紅は総合商社のトップに立った。

 穀物部隊を率いる食糧部門長の若林氏のミッション(使命)は、手つかずの中東・アフリカへの展開。世界規模で穀物の集荷から販売、加工まで一貫体制を築き、「3000万トン・クラブ」と称される穀物メジャー入りを果たすことだった。

 若林氏はミッションを達成するまでの時間を大型M&A(企業の合併・買収)で短縮したことになる。ガビロンの買収により、穀物メジャーの仲間入りを果した。

 しかも、「3000万トン・クラブ」を一気に飛び越えて、穀物取扱量は4000万トン規模に拡大。世界首位の穀物メジャー、米カーギルに並ぶ。若林氏は居並ぶ穀物メジャーを抜き去り、トップランナーに躍り出たのである。

 丸紅の穀物メジャーへの挑戦は、新興国での既存の穀物メジャーと深刻な"対立"を生む可能性がある。丸紅の現在の取扱量は、既存のメジャーからの買い付けに支えられている。虎の尾を踏めば手痛いしっぺ返しを受けかねない。

 これまで丸紅は電力業界と紙パルプに強いといわれてきたが、いまや穀物が主力事業の筆頭となっている。

 【 総合商社図鑑 未来をつくる仕事がここにある 】

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2012年08月26日

伝説の商社マン 八尋俊邦、三井物産元社長

  トップが沈痛な顔でどうする 

 ( 日本経済新聞 ”日本の百人” 1985年より )

 無類のゴルフ好き。だがフォームに無頓着で、ボールを打つと決まって足が後ろに下がる。人呼んで 「 明治の大砲 」。友人の新日鉄元社長武田豊にいわせれば 「 大砲どころか種子島の火縄銃 」。

 それでいてスコアはいつも80台というのだから不思議である。

 いうまでもなく三井グループの実力者。商社マンになって45年。功成り名を遂げたというべきだろうが、この間、一度も切れ者、やり手、本命といわれたことはない。

 が、いつの間にか社長、会長と上りつめた。八尋のサラリーマン人生は、さながらそのゴルフのようでもある。

 小学生のころのあだ名が 「 昼あんどん 」。医学生を志し二浪までしたが、ことごとく失敗。医者をあきらめ一橋大から三井物産へ。会社勤めも順風満帆とはいかず、支店の課長をしていたとき、ゴム相場で大穴を開け、ヒラ社員に降格になった。

 同社の主流ともいえる化学製品畑を歩いたものの、役員になったのは定年直前だ。

 「 七転び八起き、といえば聞こえはいいが、実際はそんなものじゃない。浪人生活は灰色だったし、降格のときはもうだめだ、会社をやめようかとも思ったよ。 」 

 「 ネアカ 」 を自任する楽天性と気分転換の巧みさで敗者復活を果たした。
 石油化学会社に日参して亀の甲のイロハから教えを請い、相手に音を上げさせた努力家でもある。

 「 運は向こうからとことこ歩いてはこない 」 

 「 どんな職場、境遇にいてもプロになれ。 」 若い社員に好んで話す言葉に目新しさはないが、挫折体験が説得力を高める。

 「 遅くとも咲くべき花は咲きにけり。 」 33歳で結婚したときに挨拶状にこう書き添えた。 「 晩婚の言い訳ですよ 」 と笑うが、この人の足どりと符合する。

 (1985年当時) 商社冬の時代。加えて、この人をして 「 業のような 」 といわせるIJPC ( イラン・ジャパン石油化学 ) プロジェクトの重荷を背負うが、いつも天気晴朗といった風情を漂わす。

 「 トップが沈痛な顔をしていてどうします。皆の力を引き出すのが仕事なんですよ。 」

 「 商社は今まで重厚長大の一本足で立っていたが、これからは軽薄短小、ニューメディア、業界の垣根を越えたビジネスと何本もの足が必要ということだ。要するに適応力さえあれば商社マンは問題ない。 」 

 「 士魂商才 」 「 下意上達 」 を掲げ、正々堂々たるビジネスを前垂れ精神でやれ、リスクを恐れずチャレンジせよ、と説く。

 「 私はもうオンボロのトンボ ( 旧陸軍練習機 ) みたいなもの。離着陸が一番危ない。だから休みに家でゴロ寝というのはきらいなんだ。 」 

 今年もすでに12回、海外出張に出た。成田に着いても会社に直行、たまった仕事を片付けないと気が済まない。

 典型的な仕事人間だが、手料理で孫たちを喜ばせ、月に一度は歌舞伎を見る。引退したら屋台のおでん屋を開くのが夢とか。マルに八の字を染め抜いた前垂れ、のれんも用意したそうだ。

 ( 引用: 日経新聞、 日本の百人 1985年より )

 【 ネアカ経営論 八尋俊邦 】
 
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