2013年02月10日

シリコンバレーのIT企業家 (12)

 著者の姉妹ブログ ”外資系つれづれ日記” の記事を転載します。http://nekketsuotoko.seesaa.net/

 オラクルの創業者、ラリー・エリソンの伝記をお届けします。

 ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ ◎ 

 1977年の夏、エリソンとマイナー、そしてオーツの3人はプレシジョン・インスツルメントの契約に入札した。入札価格は40万ドル (当時、約9,600万円) だったが、これはソフトウェアを書き、プログラマーを雇い、そしてプロジェクトが終わった後にもしばらくやっていくのに十分な額だった。

 3人の共同経営者は自信満々だった。 「 3人はうぬぼれのかたまりだった。自分たちは優秀なプログラマーだと考えていた。 」 とエド・オーツは回想する。

 こうして、人によっては傲慢だとも感じられる自信が、新会社の大きな特徴になった。プレシジョン・インスツルメントも最初は入札価格が低すぎて疑心暗鬼だったが、やがてプレシジョンは懸念を捨ててエリソンたちと契約を結んだ。

 3人は社名を楽しみながら検討した。候補に挙がった中には 「ネロ・システムズ」 (皇帝のネロが、ローマが燃えるあいだバイオリンを弾いていたことから、顧客の経費を使って浪費を楽しむの意)や、

 「ウラノス・システムズ」、「インターギャラクティック・タイタニック・オクトパス」などがあった。やがて、社名はソフトウェア・デベロップメント・ラボラトリーズ (SDL) という真っ当なものに落ち着き、創立者たちは株式を10万株発行する手続きをとった。新株のほとんどはエリソンが買った。

 「 ラリー・エリソンが先導役だったからだよ。ラリーは自分やボブよりはるかに熱心に取り組んだ。それに、ラリーのほうが私たち二人を合わせたよりも度胸があったんだよ。たぶん、ゆうに1.5倍はあったろう。

だから、株の分配はその度胸のボーナスだったんだ。ソフトウェアを書くのはボブと私の仕事だったが、この会社が成功するかどうかはラリーの度胸次第であることが二人には分かっていた。 」
 

 新しく雇われたプログラマーのブルース・スコットにとって、ラリー・エリソンとの出会いは忘れがたい体験だった。

 オフィスでの初日、スコットはSDLのコンピュータの端末をプレシジョン・インスツルメントのコンピュータにつなげようとしていた。しかし、2つのコンピュータの間には石膏ボードの壁が横たわっていた。

 「 ラリー、コンピュータをつなげる必要があるんだ。どうしたらいいだろう。 」 と尋ねると、「 こうするんだ 」 とラリーは答え、金づちをつかんで、いきなり壁を叩き、穴をあけた。

 以来、ブルース・スコットは、エリソンのビジネス哲学をこの行動に集約できると信じている。

 「 やり方を見つけろ。ないときは自分でつくれ。文句を言わずにさっさとやれ。これがラリーの哲学だ。 」 とスコットは語る。

 エリソンは思い切りが良いばかりか、一緒に仕事をしていても楽しい人物だった。ある日、エリソンはSDLの存在を世に告げる看板が無いことに気がついた。もっとも、顧客は1社だけだったし、たった1社の顧客のオフィスに間借りをしていたのだから、看板など重要ではないはずだ。

 にもかかわらず、エリソンは中古のベンツに同僚を乗せると、サンノゼに向かった。スコットは言う。 「 会社をあげて、プラスチックの看板を買いに行ったんだ。 」 
帰ってくると、エリソンはSDLの文字を看板に張りつけ、それをプレシジョン・インスツルメントの建物の芝生に突き刺した。

 シリコンバレーのベンチャー企業の始まりである。

 エリソンと妻のナンシーが、ボブ・マイナーとブルース・スコットを連れて、サンフランシスコへバレエを見に行ったとき、文化の香りが高いイベントの好きなナンシーはバレエの公演を楽しんだが、連れの3人は場面を見てゲラゲラ笑い続けていた。

 普通は、バレエを見て笑い転げる観客などいない。

 ちょうどその頃、サンタクララのSDLのオフィスからわずか数キロ離れたところで、技術者のグループが、リレーショナルデータベースの研究を行っていた。やがてエリソンたちは、その研究の実用化を真剣に模索するようになる。1970年代中ごろ、IBMの技術者たちはIBMのサンノゼ研究所に移ってリレーショナルデータベースづくりに没頭した。

 システムRグループと名付けられた彼らは、SQUAREとう言語の実験を開始した。キーボードでタイプできないこの新種の言語は無用の長物でしかなく、つぎに英語にもとづいた、より簡単で機能的な言語を開発する。SQLとよばれる言語だ。

 SQLはリレーショナルデータベース研究の突破口となった。SQLがあればユーザーはデータベース相手に簡単に対話ができる。

 しかしシステムRグループのすぐ近くには競争相手がいた。カリフォルニア大学バークレー校の教授グループも、そのころテッド・コッドの理論の実用化に取り組んでいた。

 システムRグループとUCバークレー校が黙々とデータベースづくりに専念するあいだ、ラリー・エリソンとボブ・マイナー、そしてエド・オーツの3人は、自分たちの将来に思いをはせていた。

 「 ソフトウェアを一つ書いて、それをくりかえし売るのが一番だ 」 やがて3人はそんな結論にたどりつく。

 ハードウェアの技術が進化して、新しいソフトウェアに対する需要が激増するなか、出来あいのソフトウェアを書くというビジネスに参入する会社も増加の一途をたどっていた。パッケージソフトの時代が目前だったのである。

 エリソンたちもそんな時流に乗りたいと考えたのだ。
「 商品志向のビジネスのほうが、利潤も多いだろうし、満足度も高いだろうと判断したんだ。 」 とマイナーは語る。3人ともプロジェクトがとん挫するのはもう御免だった。

 今度こそ、まっとうな仕事がしたかったのだ。しかし、どんなソフトウェアを開発すれば良いのだろうか? その答えは、IBMのサンノゼ研究所の技術者たちが握っていた。

 IBMはプロジェクトの内容を説明する論文を発表した。まずは、 「 システムR − データベース管理に対するリレーショナルなアプローチ 」 というタイトルの論文が発表された。業界人の多くがリレーショナル技術に興味を抱いた。

 エリソンたちが開発すべき商品像はついに現れた。リレーショナル・データベースシステムである。だが、3人は研究者ではないし、数学の理論家でもなかった。おそらくは、彼らの力だけではSQL言語の開発はできなかっただろう。

 データベースの専門家とはほど遠い3人だったが、最初のバージョンは数か月で書き終えた。
 「 たいしたものさ。本当によくやった。プログラマー人口は釣り鐘状の曲線を描いていて、すごいのはほんの一握りなんだ。その一握りの連中が本領を発揮すると、本当にすごい仕事をする。 」 

 エリソンは傑出した仕事をしたスコットに持ち株の4%を渡したが、それを手に、スコットはすぐ会社を辞めてしまった。それを機に、エリソンは株の譲渡にかんしてはずっと慎重になった。

  ( つづく ) 
 
( 引用: 『 カリスマ ( 上 ) 』 ラリー・エリソンの伝記 ) 


posted by ヒデキ at 13:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス: [必須入力]

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック