2012年06月25日

伝説の商社マン − 益田孝、三井物産創業者 (2) 

 人生の奇縁とは

 横浜では、日本の商人から 「先生、先生」 といわれて、外国商館との交渉に引っ張りだこだった。若いが、英語に堪能な旧幕軍の騎兵隊長は信頼度抜群で人脈を広げる。

 旧大名が藩札の始末のため外国人に金を借りた時期である。益田は、この交渉も引き受けて大いに顔を売った。この中に福岡藩があって重臣の団尚静に感謝された。益田が見込んで後に三井合名の理事長にした団琢磨はその養子である。人生の奇縁だろう。

 益田は無論、通訳で終わるつもりはない。だんだん商売が分かってきて 「 中屋徳兵衛 」 という屋号で茶と海産物の輸出問屋をやった。このころには 
 
 「 ちょっと見ただけで、この茶は伊勢、この茶はどこと判るようになった 」 が、商売はうまく行かなかった。

 そのころ 「アメ」 ( アメリカ一番館 ) こと米国のウォルシュ・ホール商会から雇いたいとの誘いがあった。日本人がまだ劣等国民扱いだったから、プライドの高い益田はそこにいた西洋人と同じ待遇にすること、一年ぐらいで辞めることを条件に受ける。

 コメが大凶作のときで、サイゴン米などを輸入した。これでコメの商売と、外国から直接輸入する手続きに習熟する。

 彼の人物を認めた男はほかにもいた。一年ばかりで商会をやめると、長州出身の豪商、岡田平蔵が訪ねてきた。大阪に造幣局ができて、日本の古金銀を買い集めて分析し、地金を売り込む計画があった。

 元薩摩藩士で新政府を去り実業人になった五代友厚 ( のち大阪商工会議所会頭 ) も仲間で、岡田は益田に今宮に置く分析所の運営を引き受けるように口説いた。承諾して大阪に行く。

 この商売は、相当、利益があったという。また岡田の店の監修も頼まれ、堂島の米相場を一通り知ったのも将来の糧になる。

 1872 (明治5)年春、横浜に戻っているときに、岡田と一緒に馬車で東京に行く機会があった。すると、やはり東京に行く馬車があって、頬に傷跡のある男が乗っていた。大蔵大輔 (次官級) の井上馨だ。

 益田には 「鋭い男」 と映った。政府が諸藩から引き受けた幕債の始末にからむ外貨の調達を、相場を煽らぬように横浜まで来て行った彼の手腕には感心していた。

 大森の休憩所で一緒になり岡田が引き合わせた。益田の存在を知っていたと思われる井上は、
 「 ゆっくりいろいろ話をしたいから、明日、吾輩のところに来い 」 と誘った。

 二人は知る由もないが、やがて三井物産を誕生させる運命的な出会いだった。
 
    ( つづく ) 
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posted by ヒデキ at 00:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 伝説の商社マン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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